漫画で大和魂を握る輝き王



有限会社輝工房

代表取締役

 

漫画家

さとう輝 氏

2012.9.20 1030


さとう輝

 

◆業種

漫画家


◆子供のころになりたかったものは?

小学生の頃は、動物園で働きたいと思っていた。

実家が畜産業を営んでいたので、常に30頭くらいの牛が身近にいた。

牛がかわいくて、単純に「動物園」で仕事がしたいと思ったのだと思う。

中学1年生になって将来のことを考えた時、母に、会社員になるにはどうしたらいいのか訪ねた。

すると、試験を受けて合格したらなれると教えてくれた。

試験!!ってテストがあるのかぁ。

「テストは嫌だなぁ」と思っていたとき、週刊「少年ジャンプ」に漫画作品募集のページを見つけた。

北海道の田舎町だったので、近所には本屋はなく、町の高校に通っていたいとこのお兄ちゃんが買ってくる「少年ジャンプ」1冊を、友達どうしで回し読みしていた頃だ。

募集のページには、「君でも漫画家になれる!」と書いてある。

何だか本当になれるような気がした。

会社員になるより簡単かも知れない!

絵を描くことが好きだったので、書いてみようと思った。

応募方法に書いてある寸法を見て、その通りに描いて応募した。

応募先は、当時ファンだった「アストロ球団」の著者、中島徳博先生あてに、毎週、作品の感想を書いたファンレターと共に送った。

先生宛に送ったのは、作品に応募して賞を取れるなんてことは全く考えていなかったからだ。

ただ先生に作品を見てもらいたかった。

高校卒業を控えた頃、中島先生のアシタント募集があった。

早速応募したら、みごと合格した。

そのことを両親に話すと、父も母も「はあっ??」何夢みたいなことを言っているんだ!という感じだった。

少しでも漫画に係わりたくて、東京の印刷会社に就職を決めた矢先のことだから両親が驚くのも当たり前だった。

そこに3番目の兄が、「好きなことをさせてやれば良いじゃないか!どうせいらない子なんだから。」と父に向かっていった。

兄の愛情を感じた。

「いらない子」と言ったのは父を納得させるためだ。

その言葉の裏には、自分が後を継いで両親の面倒をみるからこの子には好きなことをさせてやってくれ!という気持ちが込められていることが良くわかった。

兄は、とても頭が良く、高校の先生が大学に行かせてやってくれと父に挨拶にくる程だった。

しかし、昔気質の父は頑として町役場への就職を希望した。

兄は自分の夢より父の希望を優先したので、弟の私には好きなことをさせてやりたいと思ってくれたようだ。

その一言のお陰で、中島先生のアシスタントになることができた。

アシスタントになって先生にお会いしたとき、「作品を見てくださいましたか?」とお聞きすると「ああ見たよ。」と自分の作品を返してくれた。

「こんな裏表両方に描いてあるなんて論外だ!」と言われた。

雑誌の紙面は裏表に描いてあるし、作品の応募方法には片面だけに描くとは書いていなかったので、それまでずっと両面に描いていたのだ。

また、作品を先生に直接送ってくる子も例外だったようだ。

更に、後からわかったことだが、アシスタントに合格したのは、先生のアシスタントの方の助言によるものだった。

なんと先生は、自分をアシスタントにするつもりがなかったのだ。

先生のアシスタントの方が「この子は毎週、熱心に感想文を書いて送ってくるから、ぜひ採用した方が良い。」と言ってくれたのだという。

そのお陰で先生のアシスタントをしながら学び、集英社の「少年ジャンプ」へ作品を持ち込み続けることが出来た。

その2年後、20歳の時、週刊「少年ジャンプ」へのデビューが決まり、漫画家になれた。


◆毎日欠かさずしていることはありますか?

タバコをやめようと思うこと。

毎日、タバコを止めよう!と思うが、なかなか止められないでいる。


◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

1、3人の兄

4人兄弟だったのだか自分だけ年が離れていた。

一番上の兄とは10歳以上離れていたので、父とは遊んでもらった記憶が無く兄たちが父親代わりのような存在だった。

2番目の兄は東京に出てきていたので、デビューが決まるまで居候させてもらった。

後を継いだ3番目の兄は、自分から実家に電話がかかってくると、何かあったのかと思っていつもドキドキしたと言っていた。

親代わりに常に心配してくれていたのだ。

一番上の兄は、自動車整備工場の社長をしているので金銭的にもお世話になった。

本当に兄たちの存在は大きい。


2、両親

今は亡き母の愛情にも感謝している。

東京へ向かう日、函館の空港でセキュリティーチェックのゲートをくぐる瞬間、ピンポンの音と共に振り返ると母が号泣していた。

その母の姿を見た瞬間、自分も号泣、羽田に着くまで飛行機の中で泣き続けた。

自分が20歳の時、母は亡くなったので函館の空港で泣いている顔が最後になってしまった。

心残りではあるが、漫画家としてデビューした後だったので母も少しは安心してくれたと思う。

3、妻

21歳から26歳くらいまで、あまり仕事がなかった時代に食べさせてくれた。

売れない期間も、何も言わずに支えてくれた。

先日は結婚20周年に感謝を込めて、隣の家が売りに出たのでプレゼントした。

妻からは「私の家と言いながら、掃除だけ私にさせて殆どこちらの家もあなたが使っているじゃない。」と言われている。(笑)


4、山口正人先輩

漫画ゴラクで「修羅が行く」を連載していた先生だ。

生活費に困ってお金を借りに行ったことがある。

「生活できないので50万円貸してください!」と頼むと、どうやって返すのかと聞かれた。

「サラリーマンになって毎月2万円ずつ返します!」と答えた。

するといきなり「バカヤロウ!そんなんじゃ金は貸せない。」

「お前、漫画を描き続けているんだろ!描いていないならサラリーマンになる覚悟もわかるが、漫画をあきらめることなんて出来ないだろう。」と言う。

そして最後に「漫画家を続けるなら貸してやる。」と言われた。

更に、少年漫画から卒業して「漫画ゴラク」で描いてみたらどうかとアドバイスしてくれた。

「お前は、ジャンプだったら一生懸命描いて、他の雑誌だったら手を抜くのか?そうじゃないだろう。」と、雑誌名に拘らず挑戦してみることの大事さを教えられた。

漫画家としての自分があるのは、先輩のお陰でもある。


◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

「初心忘れるべからず」

元々、コレ!と思ったら飽きない性格で継続力はある。

また、2番目の兄から「やるなら10年やれ!」

「10年やれば何とかなるから。」と教えられた。

最初から、そう思っていたので、試練を試練と思わないでいられた。

色んなことが起きても、殆ど「ダメ」と思わなかった。


◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

21歳のとき。

出版社に作品を持ち込んで、何度もダメだしをくらっていたときだ。

かなりの自信を持って、集英社の週刊ジャンプに作品を持ち込んだ。

しかし結果は不採用。

いつに無く落ち込み「もうダメだ。」と妻に電話すると「帰っておいで。」と何事もなかったかのように言ってくれた。

竹橋駅から地下鉄東西線に乗り自宅に向かった。

電車が地下から地上に出るとき、つり革につかまる自分の顔が暗い夜の車窓に映った。

鬼のような顔に見えた。

何のために田舎から出てきたんだ!

こんなことになるために出てきたんじゃない!思いっきり笑うために出てきたのに・・・。

そう思うと涙が止まらない。

浦安の駅で途中下車してしばらく号泣してしまった。

いつの間にか、自分が描きたい作品ではなく、読者に受ける作品を目指していた。

作品を持ち込みダメ出しされ、あちこち修正しているうちに自分が作品から居なくなってしまったことに気づいた。

このままじゃいけない。

自分が楽しまなければ!と思った。

それからは、嫌なものは嫌と言い、自分を見失わないようにした。

ここで気づけたお陰で今がある。

それまでは漫画家になれさえすれば良かったのだが、次の段階として自分の魂の入った作品を世に送り出したいと思うようになった。

自分の思いを貫きたい。

そうは言っても、売れない時期は漫画家をやめようと思ったことが何度もある。

その度に、色々な人に助けられたことを感謝している。


◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

20歳でデビューしたが、デビュー作の連載は3ヶ月で終了した。

デビューまでは比較的とんとん拍子だっただけに、32歳で寿司マンガの連載をするまでの12年間は挫折の連続だった。

32歳から始まった連載は今も続いていて13年目になる。

とにかく人に恵まれ、あきらめず続けてきた結果だと思う。


◆夢は?

単行本を100巻まで続けたい!

『漫画ゴラク』日本文芸社で連載中の「江戸前の旬」が、現在64巻まで出ている。

それを100巻まで続けたい。

また将来的には、妻と一緒の故郷である北海道の地元に戻って作品を創り続けたい!


『漫画ゴラク』日本文芸社で「江戸前の旬」と、
『別冊漫画ゴラク』日本文芸社で「寿司魂」を連載中

輝工房 漫画家「さとう輝」のホームページ
http://www1.ocn.ne.jp/~edosyun/