人類の文化遺産と歴史を聖護する漢文王



長崎純心大学
人文学部 比較文化学科 准教授
いしゐ のぞむ氏

2013.5.24 1700


いしゐのぞむ

 

◆業種
 
大学准教授
 
 
◆子供のころになりたかったものは?
 
新幹線の運転手
 
小学校6年生の時、先生から聞かれてそう答えた。
 
しかし、すぐさま先生は「うそ〜」と言った。
 
確かに、小学校2、3年の頃はそう思っていたから嘘ではないが、その当時、これといって特になりたいものはなかった。
 
中学1年になると水泳部に入部し、本気で水泳の選手になろうと思った。
 
ところが腰を悪くし、父から「腰が悪いならやめろ!」といわれやむなく退部。
 
本気で水泳の選手を目指すつもりだったので、私にとって「水泳をやめる」ということは、この先どうしたらよいのかわからなくる程の物凄い衝撃だった。
 
そもそも父は、勉強をほったらかしにして水泳に没頭している私が心配だったようだ。
 
当時、父は会社から帰宅すると毎日のように「質問はあるか?」と聞いてくる。
 
中学生で、そんなに毎日質問があるわけでもなく、毎日「ない」と答えていると「ないはずがない!」と言って怒りだした。
 
父も母も「勉強しなさい。」とはいったことはないが、父も英語の教材を購入して家で勉強していたし、我が家には勉強しないのは罪悪という空気があった。
 
そんな中、中学2年になった時、書道の授業で水墨画と出会った。
 
仙人の世界のようで、とても魅力を感じた。
 
それから、書道に夢中になり、漢文にのめっていった。
 
 
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
 
ダイエット
 
以前から、お腹周りがかなり太く、健康にまで懸念を覚えているので、炭水化物を控え、極力1時間以上歩くようにしている。
 
通勤の際、途中下車して歩いたり、わざわざ遠くの店に豆腐を買いにいったりする。
 
この豆腐は、福岡の志摩豆腐といい堅くて歯ごたえがあるので、ダイエット中は特にいい。
 
 
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
 
近藤祐康(こんどうゆうこう)先生
 
中学の書道の先生
 
中高一貫校だったので、高校の書道部の顧問もしていた。
 
両国生まれ両国育ちの先生は、昔ながらの江戸弁で話し、「正かなづかひ」運動や漢文復興に力を注いでいた。
 
「正かなづかひ」の運動は、現代の乱れた国語を正し、誇るべき国語の一貫性を守る社会を実現するというもの。
 
これは単に学校教育の実務的問題ではなく、この国の文化に関わる政治問題と考えている。
 
現在は私の名刺も、「正かなづかひ」を使用し、「いしゐのぞむ」としている。
 
きっかけは中学の時、近藤先生の書道の授業を通じて、漢文こそ我々日本人の基本だと思ったからだ。
 
高校生になると、益々書道と漢文にのめり込み、他の勉強をほとんどしなくなった。
 
成績もほぼ最後の方に落ち込んだ。
 
授業にしばしば欠席し、書道部の部活に出席するためだけに登校した日もある。
 
近藤先生は、とても厳しい先生であったが私たちはかわいがってもらった。
 
高校では、書道の授業を選択しておらず、近藤先生の授業を受けることはなかったので、とても熱心に部活に通って来る私が、まさか授業に出席していないとは思っていなかっただろう。
 
ところがある日、「石井ちょっと来い」と、近藤先生の部屋に呼び出された。
 
部屋に入るといきなり「何してるんだ!ふざけるな!」と偉い剣幕で怒鳴られた。
 
日頃の様子を観ていて、授業をさぼっていることを察知したらしい。
 
「説明しろ!」と言われ、書道と漢文以外の勉強をほっぽり投げていることを白状した。
 
それまでは、近藤先生の中で私は「良い子ちゃん」だったので、先生も驚いたと思う。
 
涙をこらえつつ「実は先生自身も若い頃にはそんなこともあった。」と教えてくれた。
 
そして、「人としてまともな道に進ませたい。」という先生の思いがひしひしと伝わってきた。
 
先生の思いに驚き、がっかりさせてしまったことで私は涙がとまらなくなった。
 
「真面目になって、人としてまともな道へ進もう!立ち直って行こう!」と思った。
 
今も先生を師と仰ぎ、毎年のようにお宅を訪ねる。
 
この先生に出会わなかったら今の自分は無い。
 
とても感謝している。
 
 
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
 
「子供をしっかり作って、男の子は男らしく、女の子は女らしく育てたい。」
結婚前に妻から聞いた言葉。
 
今時、こんなことを堂々というなんて変わり者だなと思ったが、「とても根性の入った人だなぁ。」と感動した。
 
 
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
 
1、 近藤先生を通じて漢文に出会ったこと
 
今の中国を、昔の中国と同一視するのは誤りで、そもそも漢文文明を日本に伝えたのは今の中国ではない。
 
漢文文明が伝わったのは、日本、福建、台湾、朝鮮、広東、越南(ベトナム)、今の中国の北方、香港、という並列的現象だ。
 
日本に残された正式な文章の多くは漢文で、明治天皇による「五箇条の御誓文」や「教育勅語」もそれに近い。
 
これを現代文にすると軽くなってしまう。
 
例えば、「五箇条の御誓文」の一つ目、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」を、少し大げさな現代文にすると、「みんなで会議をして決めようよ〜」になってしまう。
 
また逆に、四字熟語の「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)」は、人のことなどまるで気にかけず、自分勝手に振る舞うことだが、漢文読みにすると「傍(かたはら)人(ひと)無(なきが)若(ごとし)」となり重みがでる。
 
高校1年生の時、このような「古き良きものを大切にしたい!」と思った。
 
また、それと同時に、「自分の中には古き良きものは何もない。」と劣等感に苛まれた。
 
じゃあ何を求めるか?と自分に問うた時、和の文化でなく漢文文明こそ極めるべきと思った。
 
京都大学に進学したのも、古典を求めてのこと。
 
古都、京都に行ってもっともっと正式な古典を学びたいと思ったからだ。和の文化を求めたわけではない。
 
 
2、 蘇州に行ったこと
 
「崑曲(こんきょく)」(漢詩のお芝居)という古典芸能が絶滅しそうなことを知り、中国の蘇州に駆けつけた。
 
中国に最初に行ったのは、京都大学在学中の時。
 
その時は語学研修で2カ月の予定だったが、とても耐えきれず1ヶ月と20日で帰って来てしまった。
 
あと10日を残して帰って来てしまうほど、中国での生活は合わなかった。
 
それでも東洋文明を学び続けた。
 
20歳の頃、中国の東洋音楽で唯一、真の文明であるにもかかわらず絶滅寸前の「崑曲」に出会った。
 
それから「崑曲」について文献を調べ、知れば知るほど何とかせねばと思うようになった。
 
大学院生23歳の時、本場で学びたいと蘇州に渡った。
 
有名な長老というより、伝統的な歌い方をする素晴らしい長老に会いたいと思い住所まで聞き知っていた。
 
その長老は、上海に住んでいて「王傳蕖(おうでんきょ)」といった。
 
直接訪ねることも出来たが、邪魔する人もいたので遠慮し、1年たってから長老の出席する「崑曲」の交流会に参加した。
 
自分で参加できるのだが、一応は配慮して関係者に連れて行ってもらう形を取った。
 
その席で王傳蕖長老の知遇を得た。伝統の衰退を憂える長老とはすぐに心が通じ合った。
 
それでもまだ、邪魔する人に配慮する時間が続いた。
 
さらに一年ほどたってからやっと王傳蕖長老のお宅を訪ねるようになり、伝統的な「崑曲」を残そうと、何年もかけて必死で録音や録画をした。
 
「崑曲」は、世界無形遺産の中でも第一回登録で第一位に選出された古典だ。
 
しかし、今の「崑曲」は特に言語面で伝統を失いつつある。
 
当時、録音や録画したものは今も大切にしているが、今後整理活用するには膨大な量の作業が必要だ。
 
 
3、結婚した時
 
25歳くらいから、35、6歳で結婚するまで、一人ぼっちで崑曲の復興に力を注いできた。
 
正直、孤独な戦いだったので、精神がもたないこともあったが、結婚してチームになったことで精神的にも、健康的にも安定した。
 
妻曰く「あなたのような変わり者が、世間的にまともな人生を歩んでいられるのも私のお陰。」という。
 
本当にその通りで、妻がいてくれるお陰でバランスが取れているのだと思う。いつも感謝している。
 
 
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
 
「崑曲」を世に残そうと必死になっていた時
 
蘇州に渡って、夜も眠れない程必死に思い悩む日が続いた。
 
一人の力ではどうにもならず、理解もされず、日本からの誹謗もこうむった。
 
毎日、目まいがして、病気になってしまった。
 
仕方なく一時帰国をしようと日本の船に乗り、食事をするとすっかり目まいが収まった。
 
その食事は、洋食だったが日本のものだ。
 
「なんだ、たった一回の食事でこんなによくなるなんて!」と驚いたが、それ程中国での生活は、精神的にも肉体的にも苦しかったのだと思った。
 
帰国して、色々な人に「崑曲」を残すことについて相談した。
 
しかし中々うまく行かず、時間だけが過ぎて行くうち「自分で稼ぐしかない!」と思うようになった。
 
アルバイトをして、当時としては最新のデジタル録音機を買った。
 
そして一人で蘇州に戻り、伝統的な「崑曲」を記録に残すことが出来た。
 
なぜそこまでと思う人もいるかも知れないが、高校生の頃から東洋文明に対する「使命感」に突き動かされて生きて来たので、当然のことだった。
 
人類のために残さなければ!と思ったのだ。
 
その後は、漢詩の古い音が残っている広東で語学を学び、大学院に戻った。
 
博士課程まで進学したが、自由な空気の少ない関西には別れを告げる時が来た。
 
大学の非常勤講師などを経験した後、大学に就職することができた。
 
最初に私を雇ってくれた長崎総合科学大学にはとても感謝している。
 
これをやると思ったらやり通す!やり通さねば何も成就しない。
 
また極最近、平成25年5月7日、中国が沖縄は日本のものではない!と飛んでもないことを言いだした。
 
しかし、中国の古い文献記録に「沖縄は日本のもの」と書かれているのを、私は去年から知っていた。
 
尖閣諸島も、東洋史専門の東洋学者が研究しようとしない。国際法学者が専門外の歴史を調べて対応してきたことには頭が下がるが、このままではいけない。
 
 
◆夢は?
 
ここ1、2年のうちに「尖閣物語」を執筆すること!
 
尖閣諸島は、歴史と文化の島だ。
 
480年前から、西から東へ渡るとき、必ず琉球人の案内で島々を経由し、多くの人々が行き来した本当の歴史を伝えたい。
 
日本のためにも!と、使命感に燃えている。
 
世間との交流を絶って、一人で長崎の離島リゾートに10日間くらいこもって書きたい。お金が許せば20日間くらいがいい。
 
長崎には美しい島がたくさんある。
 
また、漢文教育も私のライフワークだ。
 
人の興味をひくような漢文教材を300くらい見つけてある。
 
少林寺拳法、安倍晴明、百千萬億兆京(数字の単位)の算法など、平易なものだ。
 
漢文をもっと親しく読みやすい教科書を作りたいとも思っている。
 
長崎純心大学 人文学部学科紹介 准教授「石井望」のページ
 
「正かなづかひの會」幹事
 

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