日本とミャンマーの産業交流に貢献する!「電気通信」王



双見通信工業株式会社
代表取締役
中井 文雄氏

2013.4.19 1000


中井文雄

 

業種

電気通信工事業


子供のころになりたかったものは?

具体的なものはなかったが、一人で遊ぶことが好きだった。

両親は、商店をしていて忙しく、あまり会話をすることもなかったが、いつもそばにいる環境で育った。

また、三歳ずつ離れた兄と姉と一緒に遊ぶこともあまりせず、友達と外で遊ぶことはあったが、絵を描いたり、何か作ったりする方が好きだった。

中高生の頃から、インテリアに興味を持ち、自分の部屋の模様替えなどをよくした。

高校を卒業すると、建築インテリアの学校に行こうと、東京に出て一人暮らしを始めたが、人とは直ぐに仲良くなる方だったので、一度も寂しいと思ったことがない。

むしろ、一日に一回は一人になりたいと思う方で、それは、今でも変わらない。

アルバイトをしながら建築インテリアの専門学校に2年間通った。

アルバイトは、鶏肉を部位に分けて配達する仕事。

在学中2年間ずっと続けていたので、今でも鶏肉をさばいて料理することができる。

卒業後、不動産会社の開発企画部に就職した。
 
3年が過ぎて、閑職のような仕事に回されたとき、海外の話を聞いた。
 
アメリカを一周してみたい!

しかし、資金がない。

旅行中、使いもしないアパート代も半年分支払っていかなければならない。

半年計画で、お金を貯めて、英会話教室にも通った。

半年後、アメリカ行きのチケットを準備した段階で会社に休職願いを出し、受理されたかどうかわからないまま出発した。

日本からの飛行機で隣り合わせた、メキシコのグアダラハラに住む日本人男性から、ぜひ寄ってくれと住所を教えてくれ別れた。

最初はサンフランシスコのオークランドに1ヶ月滞在し、語学学校に通った。

そこで、アメリカ全土を1ヶ月乗り放題できるグレイハンドバスというバス会社のチケットがあることを知った。

これを半年間で6回買えば、アメリカを一周出来る!

早速チケットを買って東に向かった。

旅を続けるうち、朝到着する夜行バスで移動した方が効率良いとわかった。

サンフランシスコから西に移動して行き、少し上に上がって、カナダに入りナイアガラの滝を見て、ニューヨーク、ワシントンと巡った。

東海岸を南下して、マイアミからニューオリンズに着いたころ、行きの飛行機で乗り合わせた日本人男性に、いつ何時に着くというハガキを出して、現地に向かった。

現地のバス停に着くと、ちゃんと迎えに来てくれ再開を喜んだ。

彼の家に10日間ぐらいお世話になり、旅を続けた。

グアダラハラからバスで20時間かけてロサンジェルスに向かい、最後サンフランシスコに戻って6ヶ月の旅を終えた。

旅の間、ダウンタウンでバスに乗っても、少しも怖いと思ったことはなかったし、怖い思いも一度もしなかった。

帰りの空港から、勤めていた日本の会社へ「何時いつ日本に帰ります。」と電話すると、総務の責任者が出て、いつから出社できるかと聞かれた。

休職届けは受理されていたようだ。

不動産会社の開発企画部は、ある一定の土地をどのように区分けして、何を建てるか等を企画する仕事だ。

子供の頃から好きだった、ものづくりや絵を描くことが仕事に結びついた。

また、若いうちに一人でアメリカを観て周ったことは、大きな財産となった。


毎日欠かさずしていることはありますか?

メモ

新聞を見て、本を見て、インターネットを見て、良いなと思った言葉をメモする。

いつもYシャツのポケットにメモ帳を入れておき、いつでも書き取ることが出来るようにしている。


自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

作家:司馬遼太郎

本を読むきっかけをくれた人。

20歳の頃、司馬遼太郎の「飛ぶが如く」を読んだ。

幕末や明治維新のようすが書かれた本で、特に登場人物の良いところを表現するのが上手だと思った。

この本のお陰で歴史が好きになり、その登場人物ひとりびとりをもっと知りたくなった。 

それをきっかけに、司馬遼太郎の幕末の人物が書かれた本を次々読み始めた。

すると、司馬遼太郎以外が書いた幕末の人物の本も読みたくなった。

作家によって、同じ人物でも印象がかなり違うことに気づいたからだ。

20歳になる頃まで、殆ど本を読んだことがなかったが、司馬遼太郎の本は殆ど読んだし、その他の本もよく読むようになった。


自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

大忍(たいにん)

松下幸之助翁の言葉

実は、私はかなり短気だ。

忍耐するためにも、会社の部屋に張ってある。

また、最近読んだ「浅田次郎」の本にあった言葉、「嘘をつかない」「愚痴を言わない」「見栄を張らない」そして「自惚れない」を実践している。


人生の転機はいつどんなことでしたか?

サラリーマン時代勤めていた会社が倒産したこと。

アメリカ一周から帰って3、4ヶ月した頃、会社が倒産してしまった。

そこで、友人の経営している会社に就職することにした。

業態は、今の仕事と一緒だ。

だが、ここも倒産することになった。

何で、またと思ったが、思い当たることはあった。

2社とも、収入が不安定なのに、社長は派手な生活をコンスタントに続けていた。

昼に金策に走ったかと思えば、夜には飲みに行っている。

これでは収支のバランスが、崩れるのは当たり前だ。

しかし、これを2度も経験したお陰で、「自分でやるしかない!」と起業の決意を固めることができた。

連続して倒産の憂き目に合わなかったら、今の会社はなかったかも知れない。


問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

10年前、会社が傾いたこと。

今から15年前、業績は良かったが、日本では成功しがたいので海外に出ようと思った
 
特に日本では、大手に並ぶか追い越す程の勢いがないと難しい。

出るくいは打たれる。

商工会議所の国際部に知り合いがいたので相談に行ってみると、これからはミャンマーが良いよとアドバイスされた。

それから、2、3ヶ月に1度のペースでミャンマーに視察に行くようになった。

ミャンマーに行くと和む。

コンスタントに見ているうち、私がデザインした藤の家具をミャンマーで作らせ、日本で販売することを始めた。

それとほぼ同時期に、銀座と新宿で囲炉裏端の料理屋を始めた。

隣のテーブルとの仕切りや、個室があるお店にした。

今でこそ、居酒屋でも仕切りや個室は当たり前のようにあるが、当時は斬新だった。

どの事業も順調に伸びてきたので、人に任せるようにしたら下火になってしまい、本業までも危うくなった。

取引先に引っかかり、裁判で勝っても資金の回収は出来なかった。

結局、8,000万円の損害が出てしまった。

何で俺ばかりこんな目にあうんだ!道ですれ違う人々が、皆幸せそうに見えた。

しかし、ここは耐えるしかない。

日頃から、リスク管理を考慮してかけていた色々な保険を解約し、家族の保険でも満期になったものは全て運転資金に当てた。

それでも厳しかったので、妻に「家を売らなければならなくなるかも知れない。」と打ち明けると、「わかった。」と一言。

グダグダ言わなかったことは、本当に有難いと思っている。

もう一つ、鬱にもならずに頑張れたのは、ひたすら打ち込める楽しみがあったからだ。 


今は、東日本大震災が起きて立ち入ることが出来なくなってしまったが、福島県の山を半分買ってログハウスを建てた。

そのログハウスは、自分一人で1から建てた。

土日になると、一人でそこに行き、昼は大工仕事をし、夜は自炊をして寛ぐ。

一生懸命、大工仕事に打ち込んでいると苦しさを忘れることが出来た。

完成までは3年程かかったが、雨漏りもせず仕上がりには満足している。

また、状況が悪いときにはあまり考えても堂々巡りで良い知恵は浮かばないものだ。

むしろ、起きてもいない悪いことを考えてしまう。

特に相手あってのことは、相手の結論が出てから対策を考えたほうが良いこともある。 


現場に出て、1から小さい仕事でもきちんとこなし会社を立て直した。

しかし、弱ったものに追い討ちをかけるような人がいることも経験した。

うちの会社が不渡りを出した等と、嘘の情報を同業者に流された。

しかし、反対に仕事を紹介してくれる人もたくさんいて、巻き返すことが出来た。

あそこまでいっても倒産せず来られたのだから、自分は運があったと思っている。


夢は?

ミャンマーで電気事業の合弁会社を設立する!

15年前からミャンマーに目を付け、コンスタントに視察し続けている。

そこで、ミャンマーの企業と合弁会社を設立することが決定した。

ミャンマーの電柱についている電線には、接続金具がない。

ミャンマーに架線金物工場の合弁会社を今年設立し工場建設に入る。
 
ミャンマーでは、ちゃんとした架線金物の生産工場もないので、ミャンマー国産の製品を生産する。

それと同時に、私の会社の本業である「電気・通信」の工事会社を今年始め現地に設立した。

携帯の地局鉄塔の工事からビル内の電気・通信工事まで施工する予定だ。

今、弊社では6人のミャンマー人が日本の現場や事務所で働いている。

そのミャンマー人を教育して、ミャンマーに戻ったときは指導員として活躍してもらおうと思っている。

2013年11月22日(金)23(土)24日(日)には、ミャンマーの商工会議所の大ホールで日本とミャンマーの産業交流展を開催する予定だ。

ここまで来られたのも、15年かけてミャンマーの習慣を受け入れながら交流を深めることで、信頼関係を結んできたからだと思う。

しかし、最近のミャンマーは賑やかだ。

特に去年からは多くの会社が参入してきて、和むどころかのんびり出来なくなったところが少し寂しい。

日本のためにも、ミャンマーのためにも、この事業を成功させる!

双見通信工業株式会社
http://www.futami-tsushin.jp/index.html