日本きりえ協会
代表
木本有太可氏
2009/7/21
◆業種
きりえ画家
◆子供のころになりたかったものは?
軍人
「軍国少年」だった。
父親が、砲兵隊の軍人であったため影響を受けた。
特に馬に乗っている姿がかっこよく、憧れた。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
朝食抜き健康法
生水を一日2ℓ程飲む。
昼食は少量、殆ど夕食しかとらない。
幼い頃からあまり丈夫でなかったため健康には気をつけている。
こういった健康法は賛否両論で断食なども試みたが、この健康法が自分には合っていると思う。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「めぐり会い、出会い」
今までの人生を振り返ってみると、良いめぐり合わせでことが運んできた。
出会いに感謝である。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
昭和40年頃、出版社からきり絵の依頼があったとき。
それまで、マンガやイラストの挿絵の仕事をしていた。
昭和35年頃は、雑誌が多く出版され始めた時代だ。
一週間書き溜めた作品を、飛び込みで出版社に持ち込んでも何とか食べて行けた。
しかしそうは言っても、そう簡単に採用されないときもある。
そんなときは、神田―飯田橋のあたりを一日中歩き回った。
出版社に作品を持ち込んでいるうち、気の合う仲間と共同でグループを作った。
会社として登記をすることも無かったが、一人単独で仕事をするより効率が良かった。
グループとして仕事を取って、皆共同で作品を仕上げたり、持ちページを作ったりした。
その5年後のことである。
出版社から、単独できり絵の仕事が来た。
旅行関係の月刊誌で、表紙に若い女性の顔をきり絵で作成してほしいというものだった。
今だから言えるが、それまできり絵など手がけたことは無かった。
だが「やってみよう!」と引き受けた。
当事朝日新聞にきり絵カットを掲載していた、滝平二郎氏の本を読み、画集を参考にして作品に取り掛かった。
しかし、殆どは自己流であった。
出来上がった作品を見て、出版社の担当者が文句を言ってきた。
「これがいいんだ!」と突っぱねると、編集長まで出てきて文句を言ってきた。
目をもっとやさしくしてほしいなどと注文があったので、少し修正はしたが「やはり、これがいいんだ!」と言い続けた。
すると出版社も「そんなもんか」と納得し、結局一年間採用され続けた。
しかし、自分が手がけたい作品と売れる作品は違った。
本当に作りたい作品を作る自分と、生活のための作品を作る自分。
仕事のときは、クライアントの注文によって作風を変えた。
また、きり絵に傾向したのはもう一つ理由がある。
当事のマンガは1コマから6コマで出来ていた。
それが長編に変わってきたときだった。
長編になると一人では出来なくなる。
何人かのスタッフを抱え、作品を作らなくてはならない。
それがイヤだった。
作品を分業するのも、人を使うのもイヤだったのだ。
そんな時代の移り変わりと、出版社からの依頼という二つのタイミングが重なって、きり絵の世界に入るきっかけになった。
その後、15年程前に神代(かみよ)文字に出会う。
神代文字は、公に認められたものではないが、古事記編纂より以前の時代に編まれ、時の天皇や霊能者が作ったとされる超古代文字だ。
その種類は100を超え、文字一つひとつに魂が宿っているという。
この文字に魅せられ、いくつかのテーマの一つとして、神代文字の形を借りてきり絵を断続的に作り続けている。
◆問題障害或は試練は?どうやって乗り越えたのですか?
大学入学直後。
それまでは、自己流で絵を勉強してきた。
幼い頃から、一人で絵を描いたり、何か作ることが大好きだった。
例えば11歳の頃、読んだ本から紙芝居を作り、外枠も自分でこしらえたりした。
小学生の頃、担任の先生が褒め上手で絵を描く事が楽しく、益々好きになった。
その先生は、とても自由に描かせてくれた。
毎日休み時間になると、自分の机の前に絵を描いてほしいクラスメートが並んだ。
中学になると、自分の絵が日本の代表としてアメリカに贈られることになり、戦後だというのに学校から画材道具を抱負に与えられ、午後は授業公欠にして三ヶ月間絵を描き続けたことがある。
しかし、自分の進学した高校には美術の先生がいなかった。
当然ながら美術部も無かったため、数学の先生を口説き落として顧問をお願いし、美術部を作った。
しかし、指導してくれる先生はいない。
仕方なく、石膏のデッサンを描き続けて自己流で練習した。
そして、東京の芸術大学に合格し入学することが出来た。
しかし、入学してみるとレベルが違うことに気が付かされた。
入学して半年ほど後、民間の美術研究所に、絵を習いに行った。
ところが、習いに行った先でも笑われた。
「何でせっかく美術大学に入学しているのに習いにくるのだ?普通は大学に入学するために通ってくるところなのに。」という。
学科はともかく、実技の授業は辛かった。三年生から油絵を専攻したが、作品を教室の壁面に成績順で並べるのだ。
しかも、授業中に「はい、これはそこ。これはあっち。」という具合に皆のいる中で順位が発表されていく。
いつも自分は、50人中40番くらいの位置になった。
居たたまれない。
コンプレックスを感じるようになり、この状態から逃げ出したくなった。このままではどうしようもない。
当時は身体も弱かったが、精神も弱かった。もともと好き描いていた、マンガやイラストに走るようになった。
雑誌の憲章などに応募すると、入賞して賞金がもらえるようになった。
結局大学は中退し、マンガやイラストを出版社に持ち込むことで生活を成り立たせるようになった。
両親は、大学を卒業したら石川県に戻り、伝統工芸の道に進んでほしかったようだ。
農林業を営んでいた父親が、兄妹が多い中、自分を東京の大学に進学させるのは大変なことだったと思う。
それでも父は、普段はニコリともしないし自分を褒めたことは一度もないが、「子供がやりたいことは、好きにやらす。」と文句を一言も言わなかった。
母も、「今は、特別にお金をかけるけど、遺産はやらないよ」と言いながら自分のやることに文句は言わなかった。
両親には感謝している。
◆夢は?
1、死ぬまで創作を続けたい。
2、心身健康法として波動を広めたい。
生命エネルギーである気功やインドのプラーナなど、世界中に共通して、宇宙に大昔からもともとあるエネルギーを上手に取り込み、世の中を健康で平和にしたい。
日本きりえ協会
〒180-0026
東京都墨田区両国2-13-8 西澤ビル3階
電話/FAX:03-6680-6564
著書
「切り絵で描く能登半島」やさしさときびしさと
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