天命貫くシンデレラ!「テロメア」女王!



アクティブライフクリエーション 

代表

栄養学博士
白鳥早奈英氏

 

2009/10/26

出身地:大分県

生年月日:昭和14年9月12日


白鳥早奈英

 

◆業種

栄養学博士・ジャーナリスト


◆子供の頃になりたかったものは?

童謡歌手

子供の頃から歌が大好きだった。

20代の頃、新宿でスカウトされモデルをしていた時代があるが、歌手は特に芸能界のしきたりや人間関係が難しかったため目指すことを止めた。


◆毎日欠かさずしていることはありますか?

毎朝、瞑想1時間

特に決まった技法は無いが、呼吸の仕方に注意をしている。


◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

元夫の父

義父は、私のことをとても気に入ってくれていた。

元夫は、表参道で開業医をしていたこともあり、義父は食べ物が人間の健康に大きな影響を及ぼす、「食べ物は大事」ということを教えてくれた。

遊びに来るときはよく「野菜の千切り機」などを買って来てくれたものだ。

これらが、栄養学に興味を持つきっかけとなった。

今のキャリアは、この義父がいてくれたからこそである。

結婚前は、いわゆるキャリアウーマンとして週間「女性自身」の芸能担当記者だった私は、20代の時に自ら定めた目標を持っていた。

それは、4年生大学に入学することと50冊の本を書くことであった。

医師と結婚し、そのサポートをするとなると、看護師か薬剤師か栄養士である。

その目標の第一歩として、栄養士の資格取得のため青葉学園短期大学に入学した。

本当は4年制大学が良かったのだが、当時はまだまだ「女性は短大で十分」という風潮があり、夫の勧めで短大に通うことになった。
 
その後48歳で4年生の大学に生き直した。


◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

「成功の花は努力の丘にのみ咲く」

高校1年生の終わりに転校するとき、大好きな女性のクラスメートが寄せ書きに書いてくれた言葉。


◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

結婚

男の子と女の子の二人の子供に恵まれ、その子供たちと共にバレエやアメリカ留学など多くを学ぶことが出来た。

子供の頃から勉強が大好きであったが、家庭の事情で勉強をさせて貰えない環境にあった私は、この結婚が大きな転機となった。

しかし、最初の頃は「これからの女性は社会に出ていかなくては・・・」などと理解を示していた夫であったが、次第に私の社会進出を快く思わなくなっていった。

あるとき出版の話が舞い込んだが、夫は「やめとけ、やめとけ。」と言う。

仕方なく私は、キッチンで週刊誌を読むフリをして執筆活動に励んだ。

時には、トイレの蓋を机代わりにしたこともある。

それでも人生目標の「出版」が叶ったのは、夫のお陰と感謝している。


◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

高校1年生のとき

幼い頃から苦労の連続であったが、この一年間が一番辛かった。

家庭で宿題などの勉強をすることを許されなかったため、学校の休み時間に勉強するしかなかった私に「本当にあなたって良く御勉強するのね。」と隣の席の女の子が毎日毎日、何回も何回も言って来る。

これが何より辛かった。

何度「家で勉強をさせて貰えないからだ。」と伝えてもわからない。

彼女も勉強が出来た子なので、私がうっとうしかったのかも知れない。

しかし、私は勉強や試験で自分を表現する他にやり場がなかった。

幼い頃から両親と離れ、九州大分県で祖父母に育てられたが、その当時はとても幸せに暮していた。

そんな私に、小学4年のとき子供のいない父の姉である伯母から私をひきとりたいという話が来た。

一年間断り続けたが伯母は、年老いた祖父母に「子供の将来を考えたら、私が育てたほうが幸せだろう」と何度も話を持ちかけとうとう了承させてしまった。

伯母の夫は大手新聞社の記者で東京の品川に住んでいた。

祖父母と引き裂かれるように泣く泣く別れ、一人東京の伯母の家で暮すことになった。

伯母はそれなりに可愛がってくれたが、祖父母が恋しくて仕方が無い私は伯母夫婦になつくことは無かった。

ある時、伯母が電車の中で「私のことを、おばさんと呼んでもお母さんと呼んでも良いのよ」と言った。

明らか「お母さん」と呼んで欲しいとわかったが、私は祖父母と引き裂かれた恨みと、年老いた祖父母を泣かせたという恨みがあるので、わざとはっきりと「おばさん」と言ってのけた。

すると伯母の大きな目が見開かれ顔がみるみる不動明王のような恐い顔に変わった。それからとうもの叔母の態度は「可愛さ余って憎さ百倍」となった。

その日からは、おやつなどは一切貰えない。

食事も、おかずは殆どなくいつも数切れを口にするだけだった。

又、伯母は華道と茶道の師範をしていたので、その手伝いもさせられた。

朝は家の掃除で全ての畳を拭き、朝食を作ってから学校へ行った。

学校から帰ると、又家中の畳を拭き夜の御稽古の準備をさせられ、遊ぶことはおろか勉強をする時間も与えて貰えなかった。

その上、御弟子さんがいないときは、殴る蹴るの虐待を受け、よく縁側から雪の積もった庭に背中から突き飛ばされた。

御弟子さんがいるときは音がしない様にないようにつねられた。

あまりの恐さに食事も殆ど喉を通らず、話す事も出来ない状態だった。

学校には、いじめっ子の男の子がいて毎日待ち伏せをして私だけを殴りに来るのだった。

先生に話しても取り合ってくれない。

「気になる子だからちょっかいを出したいのだろう」としか考えてくれていなかったが、そんな可愛いものではない。

グーで目の辺りを狙って殴りかかってくるのだ。

更に中学生になると、近くに伯母の妹がいて、その叔母の1歳と3歳の子供のおもりもさせられた。

公園では同級生たちがドッチボールをしている、そんな姿を1歳の子をおぶって3歳の子の手を引いてボーッと見ていることしか出来なかった。

高校生になると、コートは伯父のお古、御弁当は御飯しか許されなかった。

食材は全てメモリがついていてこっそり食べることは出来ないため、恐る恐るお味噌汁に入れる煮干をそっと御弁当に忍ばせた。

しかし、思春期の私は、御弁当の時間が恥かしくて仕方が無い、こっそり隠して食べるしか無かった。

そんな学校生活だから友達も出来ることは無く、勉強だけが楽しみだった。

又、靴がきつくなっても買って貰えないため、足の指を丸めて30分の道のりを歩いて通った。

そのため足の指は今でも変形してしまったままだ。

そんな中、ぐれないでいられたのは祖父母の存在があったからだ。

私がダメになったら祖父母がどんなにか悲しむだろう。

今のように電話が普及している時代ではないので、九州に居る祖父母とは話も出来なかったが、祖父母がこの世にいてくれるという思いだけが心の支えになっていた。

高校1年の4月のこと、台所で1人遅い夕食の支度をしている時に、祖父が亡くなったという電報が舞い込んだ。立っているのもやっとで涙が止まらなかった。

そんな私を見て伯母は「何泣いてるのよ。」とののしるのだった。

「まけるもんか!まけるもんか!」と自分に言い聞かせた。それからの日々もこの思いでがんばり続けた。

又、茶道や華道の御弟子さんの中には「応援しているわよ」とそっと声をかけてくれる人もいた。

学校の勉強は数学以外いつも高成績で特に作文が大好きだった。

私の最大の喜びは「試験」で、この日が待通しかった。

恐怖の日々の中、口から言葉を発する事できない私の表現法は、試験というペーパーの上での結果と作文が唯一自分を表現出来る場であったのだ。

しかし、その唯一の楽しみである試験日も伯母にわかると、なんのかんのと用事を言いつけられ学校に行かせてもらえない。

必死で試験日がわからないように務めた。

伯母から「お荷物返します」という言われ方をして、高校2年生から九州に戻ることになって再び祖母と暮すことが出来るようになった。

高校を卒業して、祖母と東京に出た私は日立製作所の3ヶ月のアルバイトに採用された。

そして3ヶ月が過ぎた時、部長の推薦で部課長の秘書として正社員に抜擢された。

当時、日本一の企業だった日立製作所での日々は、本当に充実していて楽しく、花のOL時代を過ごすことができた。

何度かもって来てくれた部長が御見合いの話は、まだまだ何かに挑戦したくて断り続けた。

しかし、20代は劣等感の克服のために費やした10年間だった。

いろいろなところの講演を聞きに行ったり、話し方教室に通う等してなどして、自分を高める事に勤めた。

伯母から毎日「バカね。バカね。」と言われ続けて来た為だ。

少しずつ自信がつき、9年間のOL生活の後会社を辞め、編集記者になりたくて行動を起こした。

毎日、3ヶ月間「女性自身」の編集長宛に電話をし続けた。

3ヶ月目に編集長の指示で3つテーマの文章を書き、記者として採用となった。


記者に成り立ての頃、400字詰め105枚のデータ原稿にデスクから「こんなに記事を書いたのは君が始めてだ!書き過ぎだ」あきれられたこともあったが、花形部所の芸能担当記者になり今では考えられない華やかな毎日だった。

40
歳を過ぎてから本を出版した。

社会での活躍を望んだはずの夫とは、本が1冊出るごとに距離が出来ていった。

本を出して2.3年目で私が栄養額的な面から発表した『食べ合わせ」がベストセラーとなった。

しかし、いろいろと努力する割に報われることのない長い年月が過ぎた後、最近になってやっと報われ始めた。

2009年106日テロメアの研究がアメリカの3人の科学者によってノーベル生理学・医学賞を受賞した。

私には1997年から目をつけ10年余りの日々執筆していた本がある。

それが今、脚光を浴びようとしている。

その本を今年の5月に統べて書き直しをして「命の回数券テロメア」という題で11月に発売されることになった。

今まで、逆境に負けずがんばり続けたことを神様が漸く認めて下さったのだと感謝している。

又、子供の頃から大好きだった歌にも7、8年前から挑戦している。

平尾昌晃先生のところで歌を習っていて、年に2回程発表会がある。

今は誰に遠慮することなく、色々な形で自由に自分を表現できて幸せである。


◆夢は?

これからの人生は、三分の一は人や動物のために使い社会に還元し、あとの三分の一は仕事をし、残りの三分の一を自分のために使おうと考えている。

3
年前に、ガンかも知れないと言われ手術をしたが、幸いにもガンではなく命拾いをした。

この時に、生かされていることに感謝をし、残りの人生は神様からのプレゼントと考えているからである。

まだまだ沢山勉強し、多くの皆様に色々な形でお役に立ちたいと考えている。


アクティブライフクリエーション  「感謝の食塾」代表

http://www.s-shiratori.com/index.html