運命の道を七色に輝かす「今ここ!」王



古書 西村文生堂

代表

西村康樹氏

 

2010.7.14


西村康樹

 

 

◆業種

 

古書店

 

産業能率大学兼任講師

 

 

◆子供の頃になりたかったものは?

 

遊びに夢中でその事しか考えなかった。

 

だが漠然と、親が古書店を経営していたので、いつかは店を継ぐのだろうと思っていた。

 

 

◆毎日欠かさずしていることはありますか?

 

「よし今日もしっかりやろう、頑張ろう」と心の中で唱える。

 

色々なタイプの人達と会い、情報交換や収集をする。

 

 

◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

 

勝海舟。

 

幕末関係の本。

 

 

◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

 

片山豊氏の言葉。

 

片山氏は、今年101歳になる。

 

フェアレディZの生みの親であり、米国日産の初代社長として手腕を振るった。

 

 

◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

 

自分がやりたいというより、いつも人から誘われて事を始める。

 

小さい頃、セミ採りをした事がなく、友人に誘われ、採り方を教えてもらった。

 

初めは、全然セミを捕まえられなかったが、必死にやった。

 

そのうちに誰かが飽きてしまうが、自分だけは飽きずにはまっていた。

 

子供の頃は、病弱だった。

 

小学校3年生の時、親が健康の為にと地域の野球チームに入れてくれた。

 

物心がついた頃から、身体は弱いし、運動神経も鈍いし、家族の中では頭も悪いとコンプレックスを持っていた。

 

だから練習し、努力をして人の倍やらないとついて行けないと思った。

 

最終的に、何事も上手になっている事が多かった。

 

中学校3年生の時、友人に誘われバンドを結成した。

 

当初は人数が足りなくメンバーになったものの、全くやる気も興味もなかったのだが・・・見事にはまってしまった。

 

その当時は、ハードロックをやっていた。

 

自分は、ベース担当。1?2年の間にメンバーが何人か入れ代った。バンドブームになる2年位前のことだ。

 

高校2年生の時、深夜番組の?平成名物TV?☆三宅裕司のいかすバンド天国☆『イカ天』が流行ってバンドブームとなった。

その時期にバンドを始める人達が多かったが、自分達のバンドは2年の間に上達し、その頃にはアイドル路線目指し、原宿のライブハウスで月に2回ライブをやっていた。

 

中学校3年生から高校卒業まで、脇目も振らずバンド一本に熱中した。

 

高校3年生の時、バラエティー番組のバンドオーディションを受け、最終予選まで残った。しかし、仲間と話し合い路線が違うと辞退した。

 

そのメンバー仲間の一人は、芸能界で活躍をしている。

 

その後、ある芸能人のバックメンバーの話しもあったがその気になれなかった。

 

正直な所、メンバーも自分も他の事に興味を持ってしまい、バンドに興味や魅力を感じなくなってしまった。

 

19歳から22歳まで毎日遊んだ。

 

その間、就職せずに近所の知人から頼まれては、ガソリンスタンドや駐車場のバイトをした。

 

振り返れば、いつも目の前にやるべき事や頼まれ事があり、やりたい事を考えている暇がなかった。

 

22歳の時にバブルが弾けた。

 

当時、銀行は顧客にかなり融資をしていた。

 

親も常に一定額を付き合いで借り入れしていた。

 

それまでは金利だけの返済で良かったのが、元金返済を月に40万円しなければならなくなってしまった。

 

親子二人でサラリーマンをやっても返済出来ない金額だと税理士に言われた。

 

それであれば自分で何かをしないと返済が出来ない・・・

 

親は古書店2代目だったが、バブルが弾ける前に既に店を辞めていた。

 

小さい頃から本が好きで、古本屋で育ったという古本への感謝の気持ちがあった。

 

だったら古書店3代目としてやって行こうと覚悟を決めた。

 

約6千万近い借り入れ金の返済。

 

マイナスからのスタートだった。

 

月40万円返済するとなれば、40万円分の仕事を作り、こなさなければ。

 

負荷がない人は、儲かれば安心して、それ以上はやらない。

 

店をオープンする半年前から古本市場に行き、勉強しチェックをした。

 

オープン当初半年間は、スーパーの古本市を回った。

 

死ぬまで本屋を続けていられたら幸せだと思った。

 

1年半後には、2店舗目がオープン。3年目に3店舗目がオープン。

 

22歳で店を始めて27歳までの5年間、休んだのは3日もない。

 

この頃には売上が年商1億円程になっていた。

 

29歳の時に、2店舗目に借りたビルが建て替えとなり、これを期に三つの店舗を合併した。

 

1F、2Fのフロアー50坪程の大きな店としてオープンさせた。

 

家賃は170万円。家賃の支払いの為に、漫画や文庫本を沢山売らないとならない。

 

自分が考えていた古本屋像と方向性が違ってしまった。

 

やりたい事が出来ない。

 

半年で辞めたくなった。

 

店を一箇所にまとめたのは失敗だった。

 

古本屋はお金儲け以上に、やはり古本屋として世の中に貢献できる事があるはず。

 

店舗を合併する少し前、「自由が丘のガイドブック」を地域で一番売っていた。

 

2年間で8千部売れた。

 

当時は自由が丘で販売される程度だったが、現在は全国書店で販売されている。

 

一番販売数が多い店という事で、当時の担当者がガイドブックのアイディアや意見を聞きに来た。

 

「ガイドブックを買う人の9割が20?30代の女性だから、活字を大きくするより、サイズを小さくし、バックに入るようにした方がいい!」タイトルも『ザ自由が丘』を『自由が丘オフィシャルガイドブック』と提案したら、全てが通り決まった。

 

気が付くと企画に参加するようになっていた。

 

この時期が一番の人生の転機だった。

 

ガイドブックの仕事を始めてから、自分のことでなく地域の事をやるようになった。

 

ボランティア的な事をしている。

 

自由が丘商店街振興組合が発行している『自由が丘オフィシャルガイドブック』は、地元で働くショップオーナー達が企画、編集した公式ガイドブックで、2004?2005年版は約10万部を完売した。

 

自由が丘の商店街は、 1,300軒の日本で最大の加盟店舗数があり、日本最大の発行部数を誇る。

 

古本屋としての15年が、自由が丘オフィシャルガイドの制作、編集をする上で役立ち、商店街活性化に繋がっている。

 

35歳の時に、自由が丘オフィシャルガイド、自由が丘壁新聞の編集長になり、大きい店舗では、やりたい事との両立は出来ないと決断し、オープン当時の場所に戻った。

 

現在もその店舗で古本屋だけでなく、ブックスタイリストつまり本の専門家として、インテリアやモデルルーム等の洋書選びやレイアウト、更に大学の図書館や出版社向けに古本のカタログなどを作る仕事・イベント・展覧会などの企画をしている。

 

又、テレビ、ラジオ、雑誌などの仕事を通して、地域活性化に今後も貢献して行きたい。

 

 

◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

 

努力。

 

何事においても人の倍頑張る事。

 

任されたり、頼まれて「やります」と言った事は精一杯やらないと失礼だ。

 

がっかりされるのが嫌いだからやるしかない。

 

何かやりたい事が見つからない事は悪い事ではない。

 

やりたくて、やり足らなかったら、与えられた事を一生懸命にやれば良い。

 

夢を持っていないのが悪いのではなく、夢に向かって行くのが偉いような、風潮こそが良くないように思う。

 

夢に向かって行くだけが立派なのではなく、むしろ、やりたくなくても、与えられた事や頼まれた事を一生懸命にやる方が、立派なのではないかと思う。

 

投げ出さない事が一番大切で、与えられた環境の中、如何に己を活かし発揮出来るかだ。

 

蛙が鳥になろうとしても無理なのだ。

 

だからこそ蛙に生まれたら、最強の蛙になれば良い。

 

 

◆夢は?

 

常に一生懸命だからこそ、一生このままでいたい。

 

人の倍頑張っているから、その気持ちをずっと維持し、最後まで持続できるようにしたい。

 

古書 西村文生堂

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