◆業種
・宿泊業→種子島湯治宿「恵美之湯」
・カフェ営業「海の家Beach」
・サーフィンスクール・サーフガイド
◆子供のころになりたかったものは?
子どもの頃、自分には「これになりたい」という明確な夢はなかった。
ただひとつ確かなことは、体を動かすことが心から好きだったということだ。
小学生の頃は、ほぼ強制的に剣道を習っていたが、正直まったく楽しくなかった。
中学では「自分のやりたいスポーツを」と思いサッカー部に入ったものの、幼い頃から続けてきた仲間とのレベル差に圧倒された。
それでも不思議と折れなかったのは、“動いている時間が好き”という根っこがずっと変わらなかったからだと思う。
そして、高校で人生が大きく動き出す。
中種子高校サーフィン部に入ったことをきっかけに初めて海へ入り、そこで“波”という存在に心を奪われた。
「これだ」
初めて心が震えた瞬間だった。
そこからは、完全にサーフィン中心の生活。
大会や遠征に明け暮れ、高校卒業後は家業の宿を継ぐ将来を見据えて千葉のホテルで働きながらサーフィンを続けた。
21歳のときには千葉南支部代表に選出。
さらにハワイやバリにも渡り、波と格闘し、自然の力を全身で学んだ。
振り返れば、幼少期の奄美大島で感じた自然の記憶、そして種子島で育った環境が、すべて今につながっている。
子どもの頃には夢がなかったはずなのに、
気づけば海が、波が、自分の進むべき道を示してくれていた。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
朝起きたらまず海を見る。
風向き、うねり、潮、空気。
「今日の波はどうかな?」と問いかける時間が、自分の一日の始まりだ。
波に乗るためには、勘や勢いでは絶対に足りない。
毎日海に入り、積み重ねてきた感覚でしか読めない世界がある。
好きで続けてきたサーフィンが、人生の軸になり、仕事の軸になり、いまの生き方そのものになった。]
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
19歳のとき、同じ夢を追いかけていた一人の仲間と出会った。
共にプロサーファーを目指し、波と向き合い、互いを高め合った同志だ。
彼は技術以上に“姿勢”と“覚悟”を教えてくれた人だった。
サーフィンだけでなく
「人とのつながりをどう大切にするか」
「プロとしてどう生きるか」
そうした“生き方”そのものを教えてくれたのも彼だった。
最近、惜しくも彼はこの世を去った。
けれど、自分の中で彼の存在は今も生き続けている。
彼と出会ったから、自分はまっすぐに努力できたし、応援してくれる人が増えていった。
「いまの自分があるのは、あの出会いがあったから」そう心から思える。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
自分の人生を大きく変えたのは、あるプロサーファーから投げかけられた一言だった。
「なんのために?」
その問いに、当時の自分は答えられなかった。
がむしゃらに頑張っているつもりだったが【目的】を持たずにただ突っ走っていただけだと気づかされた瞬間だった。
今振り返ると、プロになれる人とそうでない人の差は、技術ではなく、どれだけ強い目的意識と覚悟を持てるか…その一点にあるのだと思う。
進むべき道に迷い、プロへの挑戦を諦めかけていたとき、同じサーファーから再び言葉をもらった。
「自分のためにやるんだろ?頑張った分も、さぼった分も、全部自分に返ってくる。」
この言葉は、胸に深く刻まれた。
応援してくれる人がたくさんいるからこそ、その人たちに恥じない姿を見せたいという気持ちも芽生えた。
自分のためでありながら、応援してくれる人を裏切りたくない。
その想いが、自分を前へ押し出した。
そして、大切な母を亡くしたとき、プロサーファーの道から自営業の道へ進む決意をした。
けれど、サーフィンは今でも自分の一部だ。
海とともに生きることを続けながら、大好きな種子島にサーフィンを通じ、多くの人が訪れてくれる未来を思い描いている。
「なんのために?」
「全部自分に返ってくる。」
この二つの言葉は、今も自分の真ん中にある。
努力は裏切らないし、
自分がちゃんとしていなければ、人はついてこない。
サーフィンを通して出会った人たちが自分に教えてくれたのは“波の乗り方”ではなく「どう生きるか」という生き方そのものだった。
その教えは、これからの人生の中でも、ずっと揺るがずに生き続けていく。
◆自分の家族のこと、家業の宿のこと
兄弟仲は昔から良く、今でも互いを尊重し合っている。
一方で、父との関係は子どもの頃から複雑だった。
父は4人兄弟の末っ子で、自由奔放に“自分の道”を貫くタイプ。
一緒に遊んでもらった記憶は少なく、やりたいことに次々と手を出す父の姿に反発心を抱いていた。
しかし、家の中に争いはなかった。
それは、母が驚くほど我慢強く、温かく家を支えていたからだと思う。
家業である「恵美之湯」を継ぐとき、自分の隣にいたのは父よりも母だった。
女将として宿を守り、夏は海の家まで切り盛りする母はとても働き者で、人当たりが良く、誰からも愛されていた。
何より、どんなときも自分の意思を尊重し、応援してくれる存在だった。
55歳で母が病に倒れ、わずか1年半の闘病で旅立ったとき、自分の人生は大きく変わった。
本当は、もっと一緒に宿を大きくしたかった。
母自身にも叶えたかった夢がたくさんあった。
夢半ばで旅立った母が、一番悔しい思いをしたに違いない。
だからこそ、今の自分はその想いを継ぎ、「恵美之湯を未来へ残す」という使命を胸に歩いている。
父とは衝突も多かった。
母亡き後にともに働くようになると、考え方の違いから何を言われても反発してしまう時期もあった。
けれど、今振り返れば気づく。
父の自由奔放さは、自分にとって“反面教師”であると同時に、代々続く宿を守り抜いてきた「強さ」の表れでもあったのだと。
家業を続けてきた父に対するリスペクトは、確かにここにある。
あの性格だからこそ、山田家の宿は今日まで続いてきた。
それは素直に尊敬すべきことだと思っている。
【恵美之湯 5代目として】
実は20歳のとき、思いもよらない出来事が起きた。恵美之湯が全焼したのだ。
家族が無事だったのは奇跡だったが、宿は約7年間の休業を余儀なくされた。
27歳で帰島し、宿を復活させる決意を固めた。
恵美之湯は南種子町の郷土史にも名を刻む場所であり、地元の人たちが昔から大切にしてきた“地域の宝”だ。
山田家に生まれた者として、この宿を未来へつなぐ。それは自分が受け取った使命だと思っている。
【海の家 Beach」2代目として】
海の家は父の代から続く場所で、自分が2代目になる。
昨年、大幅なリニューアルを行い新しい姿へと生まれ変わった。
Beachは「地域の人が集える場所」をテーマにしている。
観光客がゆったりとくつろぎ、地元の人がふらっと来られる場所。
マルシェや音楽イベントを開催し、交流が自然と生まれるような空間づくりを続けている。
これらすべてが、サーフィンでつながったご縁から生まれた。
そして自分で立ち上げたサーフィン事業。
1.恵美之湯(継承)
2.海の家(継承+再構築)
3.サーフィン事業(ゼロから創造)
この3つが、自分の人生と仕事の柱になっている。
「受け継いだもの」と「自分で築いたもの」が並び立つことで、今の自分らしい働き方が形になっている。
◆ 波とともにある人生。そして種子島というフィールド
海が好き。その想いが、自分のすべての根底にある。
海に入ると、まるで自然と戯れているような感覚になる。
波を読み、待ち、そして乗る。
その一連の流れは、自分の心と体がいちばん素直になれる瞬間だ。
波が目の前で立ち上がったときの「よっしゃ」という高揚感。
乗り切れた瞬間の胸が震えるような達成感。
それは何度繰り返しても飽きることがない。
行き当たりばったりでは絶対に乗れない世界だからこそ、風向き、うねり、波の表情を読み切るために、毎日海に入る。
この感覚は、積み重ねた時間だけが教えてくれるものだと思う。
サーフィン競技では、2025年の鹿児島支部予選で優勝し、これで4年連続の鹿児島代表となった。
プレッシャーのかかる場面は人生で多くない。
だからこそ、応援してくれる人、支えてくれる人、そして同じ時間を積み重ねる仲間の存在がどれほど大切かを実感する。
サーフィンは一瞬の勝負。
その一本にすべてが詰まっていて、努力した分もサボった分も、きれいに自分に返ってくる。
ストイックに向き合った時期ももちろんあったが、何より大事にしてきたのは「楽しむ」ことだった。
続けてきたサーフィンが、気づけば人との縁となり、仕事となり、生き方そのものへつながっていった。
そんなサーフィン人生を育ててくれたのが、ほかでもない種子島だ。
太平洋側と東シナ海側を、車で20分で行き来できる。
風向きやうねりによって波は大きく変わり、島全体がひとつの巨大なサーフポイントのような場所だ。
ビーチが多く、離島に多いリーフだらけの海とは違い、初心者から上級者まで楽しめる懐の深さがある。
そして、何よりこの島には“温度”がある。
人の温かさ、食の豊かさ、空と海の迫力。
飛行機代が安くない分、本気のサーファーたちが自然と集まってくる。
種子島は、海が好きな人間の“本気”が集まる島だ。
これまで最高の波に乗れたのはハワイだった。
山のようにそびえる10フィートの波。
恐怖と興奮が背中合わせの巨大な壁に、気合いで突っ込んでいく。
その一瞬にすべてを賭ける感覚は、まさに命のやりとりに近い。
岩場に頭をぶつけて11針縫ったときですら、恐怖よりも「海が好き」「楽しい」が勝っていた。
だからまた、海に戻っていく。
自分にとってサーフィンはただのスポーツではない。
海との恋のようであり、人生そのものでもある。
波とともに挑戦し、島とともに生きる。
その生き方が、自分の軸であり、これからも変わらない道だ。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
過去を振り返ると、“どん底”と呼べる時期はない。
ただ、人生の方向を大きく変えた転機はいくつもあった。
最初の転機は、高校でサーフィンに出会ったこと。
波にのめり込み、気づけばサーフィンが自分の人生の軸になっていた。
あの出会いがなければ、千葉での挑戦も海外修行も、今の生き方も生まれていなかったと思う。
次の転機は、19歳で出会った同志の存在。
共にプロを目指し、姿勢や覚悟、人とのつながりの大切さを教えてくれた仲間だ。
彼がいたからこそ、自分の“生き方”が形作られたと言っていい。
そして最大の転機は、母の死。
55歳で母を亡くし、プロの道から“家業を継ぐ道”へと舵を切った。
母が残した想いを受け取り、「恵美之湯を未来へ残し、発展させていく」ことが自分の使命だと強く感じた。
◆ 問題、障害、あるいは試練は?どう乗り越えたのですか?
これまでの人生で“どん底”と感じたことは少ない。
やりたいことを追いかけ、起きる出来事を“試練”というより“経験”として捉えて生きてきたからだ。
ただ、今が人生で最も挑戦している時期だと思う。
昨年は「頼まれたことは全部やってみる」と決め、これまで後回しにしてきたことにも全部挑戦した。
その結果、正直大変なことも多い。
けれどその“とっちらかり”も、自分にとって成長の一部だと感じている。
種子島で自営業をしていると、地域とのつながりがそのまま仕事につながる。
関わりを広げれば広げるほど応援してくれる人が増え、
結果として商売にも広がりが生まれる。
これは“地域で働く”という生き方ならではの手応えだ。
父は何事も長く続けるタイプではなかったが、その姿を見て育ったからこそ、自分は“続けられるものを残したい”という強い思いがある。
家業を継ぐと決めたのも、その思いが根底にある。
今は“大変=大きく変わる”という真っただ中にいる。
この時期を乗り越えた先に、自分の新しいステージがあると信じている。
◆夢は?
自分の仕事はすべて“観光”につながっている。
サーフィンも宿も海の家も、どれも種子島という地域があってこそ成り立つものだ。
だからこそ、その根底にある「地域」を大切にしながら、種子島をもっと盛り上げていきたいと思っている。
最終的な夢は、「自分がいるから種子島に来たい」と思ってもらえる存在になること。
この島の自然や人、文化の魅力を自分の仕事を通して伝え、訪れる人がまた戻ってきたくなるような、心に残る場所をつくっていきたい。
そしてもうひとつは、母の夢でもあった「恵美之湯をもっと発展・拡大させること」
この地に根づく湯治と温泉宿を未来へつなぎ、たくさんの人を癒し楽しませる場にしていきたい。