クリスタルな輝き「ミス日本国際親善」女王



元ミス日本国際親善

ジャーナリスト

桜チャンネル

キャスター

大高未貴氏

 

2009/9/14


大高未貴

定価:1,620円

発売日:2015年7月18日

講演会のテーマ
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・「日本のメディアが伝えない国際情勢」
・「米中に挟撃される日本」
・「日本の国防の真実 自衛隊を取材して、、、」
・「日本は生き残れるのか?次世代における国家間サバイバル!」
・「日本からみた世界の面白さ 世界から見た日本の面白さ」
・「ここが変だよ 外国人!」
・「中国からイスタンブール 1万2千キロ 女一人大冒険の極意」
・「羊と虎?!日本とユダヤ不思議な相関関係」
・「ユダヤ人に学ぶサバイバル思考法」
・「世界80カ国を無事に踏破した秘訣 

  セキュリテイ能力を開発するための不思議な話」など

 

 


 

◆業種

ジャーナリスト



◆子供のころになりたかったものは?

旅人&冒険家

少女時代、ある朝起きると、枕元に「赤いリュック」が準備されていた。

 

そして、身じたくを整え終わると、行き先も何も告げない母親に手をひかれ原宿駅前の岸体育館に連れていかれた。

 

そこには見知らぬ子供たちがたくさんいて、私は見知らぬ子供たちと一緒にバスに乗せられてしまったのだ。バスがゆっくりと発進し、気がつけば窓の外で母親が不安そうな顔で手を振っている。

 

「捨てられた!」と思って大泣きしたが、時すでに遅し。


そのバスは「捨て子」バスではなく、幼児教育のキッズツアーで目的地は軽井沢だった。


あんなに大泣きに泣いていたのに、軽井沢での3日間は物凄く楽しかった。

 

一人っ子の私にとって、たくさんのお友達と一緒に生活することが楽しくて、楽しくて仕方がなかった。


最後には、家に帰りたくなくて再び、大泣きした程だ。

 

お世話になった旅館の仲居さんのおばちゃんももらい泣きして、バスが出発する時、涙をぬぐいながら白いハンケチをクルクルとふりまわしてバスを追いかけてくれたことがいまでも脳裏に焼き付いている。


 ”この世はちょっと勇気をふるって一歩前に飛び出せば、素晴らしい出会いや楽しいことが待ち受けている”いまになって思えば、 どうやら私はこの幼児体験で、旅の醍醐味を覚えたようだ。


やがて大学生の頃は、スーツケースにいつも20万円を入れていた。


いつでも、旅に出かけられるようにしていたのだ。


少し額は増えたが、その習慣は大人になった今も変わらない。


落ち込んだりスランプになった時、”いつでも行きたい所にいける”という余裕が明日の希望を作るのだ。


◆毎日欠かさずしていることはありますか?


毎日、寝る前に呼吸法を使い、心と身体を洗うように努力している。

心の濁っているときは物事がスムーズにいかないばかりか、ろくな目にあわないが、逆にクリアだったら良いことやシンクロニシテイが山ほど起きる!そんな時は、たとえ普通の日常生活の中でも異次元を旅しているような楽しみを味わうことができる。

 

結局すべて自分の心の持ちようなんだと思う。


◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?


某国際情報誌の編集長


ジャーナリストとして初デビューのパレスチナ・ガザ地区の取材記事を採用してくれた人。


本来ド素人の記事を採用することはあまりないのだが、とても素直な文章で何かキラッと光るものを感じてくれたという。


戦後、諸外国とはちがって平和ボケした環境と、江藤淳氏が指摘する『閉ざされた言語空間』の中で言論活動を行ってきた多くの日本のジャーナリストたちは、「弱者=善、強者=悪」という単純なものの見方に縛られ、時にその偏見がイデオロギー運動に利用されてきた。


しかし、私は幸いなことに、何のイデオロギーにも染まっていなかったのでパレスチナに関して、弱者擁護の視点だけではなく弱者ならではの矛盾にも着眼し、書いた。


その率直さに可能性を見出してくれたのだ。


ジャーナリストの使命は、真実の情報を提供することで、情報を自分の思惑はイデオロギーで操作してはいけないことをこの編集長から学んだ。

 


◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?


1
、韓国の李王家に嫁がれた日本の皇女・梨本宮方子妃殿下(韓国で精神薄弱児、身体障害者の学校を作り彼らのために生涯を捧げ、 現在も韓国に眠っておられる)。


その方子妃殿下の口ぐせ。「成せば成る。奇跡は起こる」「大調和」


2
、旅先で出会ったインド人の口ぐせ「ノープロブレム」

 

◆人生の転機はいつどんなことでしたか?


1、発展途上国で垣間見た人間のバイタリテイ


フェリス女学院大学に通っていた頃。ちょうどバブル全盛期で日本中が浮かれていた。しかしいつまでもこんな虚栄の時代が続くとも思えず、ふとした思いつきで生まれて初めての海外旅行、インドへ出かけた。


インドの空港に降りたって直ぐ、足元を巨大な何かがガサゴソと通り過ぎた。ギョッと息を止める間に、片手足のない人がスケートボードに乗って通り過ぎてゆく。


ホームやトイレで生活をしている下層階級の人たち。

 

1ルピー恵んだらあっという間に乞食に取り囲まれもした。

 

ライ病患者や像皮病、極貧、死体が流れるガンジス河で沐浴する人ETC。こんな行き地獄で何故か明るく、大人も子供もナイーブな日本人が度肝を抜くほどしたたかに逞しく生きている。

 

そのバイタリテイに脱帽した。


これが、何をやっても生きて行ける!と思ったと同時に世界に目覚めたときでもあった。

2、就職の挫折とモラトリアム期


大学卒業後は、「世界の旅人」の夢を忘れず、スチュワーデス(国際線客室乗務員)を目指したが最終審査で落ちてしまった。


ならば旅行社だ!と思い、大手旅行会社の面接に挑んだ。


JTBワールドの最終面接で「中東や東南アジア、ラテンアメリカなどのいわゆる第三世界で活躍したい!」と熱く語ったところ、「うちはヨーロッパやアメリカが主流なのでそういうことなら、関連会社デイスカバーワールドに行ったほうがいいでしょう」とあっさり言われてしまった。

 

そこでさっそくデイスカバーワールドの門を叩いたが、すでに採用試験は終わっているとのこと。

 

しかし、めげることなく「どうしても面接して下さい!」と熱烈な手紙を書いてなんとか面接にこぎつけ、めでたく採用。


半年後、トルコ、イスラエルの研修旅に参加し運命の転機が訪れた。

3、天職との出会い


旅行会社に勤務していた時に派遣されたイスラエルで自分がやりたい仕事”ジャーナリスト”を見つけた。

 

研修先でパレスチナのインティファーダ(抗争運動)を見た瞬間、バスから飛び降りてレポートしたい衝動にかられた。

 

”私がやりたいのは観光名所の案内ではなく、いまここに生きている人々の息吹を伝えることだ”と直観。


鳥肌が立つほど血が騒ぎ、自分がなりたいのはジャーナリストだと気づいた。

 

さっそく「ジャーナリストになります!」と心の中で決め、1年で退社。同僚にも恵まれとても居心地が良かった会社なので後ろ髪をひかれる思いだったが、振り返らず前に進んだ。


4、ミスコン?!世の中”記号論”


色々な人脈をたどって、大手広告会社の研究所に入社したのはいいが、仕事はなんとお茶汲みだった。

 

給料も下がり、ジャーナリストは夢のまた夢。正直、途方に暮れて 神田川のほとりを、淋しく一人、とぼ
とぼ歩く毎日になってしまった。


そんなとき、本屋で成功哲学の本に出会った。


「マーフィーの成功法則」や、D・カーネギーの「道は開ける」など、その手の本をたくさん読んだ。


そして「その気になった!」


当時の私はどん底だったので、物凄く希望を感じ本気で信じた。


中途半端に恵まれていたら、こうは上手くいかなかったと思う。


とにかく、この現状から抜け出そうと必死だったのだ。

5、その半年後、一枚の広告を手にしたとき。


その広告はミス日本の募集だった。


そこには25歳が上限と記されていた。


そのとき25歳だった私は、最後のチャンスだと思った。


ただの美人コンテストではない。


ミス日本はある特典をクリアした者全員に与えられる称号。その中に「ミス日本国際親善」というのがあった。

 

ただのアルバイトをしながら世の中、いかに記号や称号で人が判断されるのかということを嫌というほど味わった。


これなら、無料で色々な国に行って取材できる!肩書きもできる!


親友に背中を押してもらって、ダメ元で応募。


神様にも 「国際親善としてがんばっていいレポートしますから、チャンスを下さい!」必死で祈った。


その祈りが通じたのか「93年ミス日本」「94年ミス日本国際親善」の肩書きを手に入れることができた。


1993年、和平合意の年、イスラエル、トルコの国際親善の仕事をこなし、その後、滞在期間を延ばして自費でガザ地区を取材。

 

その時、地元の大学を取材していた際、学生たちが「なぜアラファトに会わないんだ」という。


丁度このとき、アラファト議長は和平合意のためチェニジアからガザに帰還したところだったのだ。


目からウロコの学生の言葉に、ダメ元でアラファト議長に取材を申し込んだ。


すると「日本のミスになんてめったに会えないだろうから」とすんなり許可が下りた。


「ミス日本」の肩書きが活きたのだ。


その時の取材記事が、ジャーナリストとしてのデビュー作となった。

 


◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?


ジャーナリストになる!と宣言したが、お茶汲みしかできなかったとき。


この時は本当に八方塞で物凄く落ち込んだ。


しかし、素晴しい成功哲学の本に出会ったことで立ち直ることができた。

 

くよくよしていても一銭の得にもならないことに気づかせてくれたのだ。


中途半端に恵まれていたら、こうは上手くいかなかったと思う。


とにかく、この現状から抜け出そうと必死だったのだ。逆境は肥やしというのは本当だ。


本に書いてあることを素直に受け取り、その気になった。


絶対上手くいく!


大丈夫!


と確信できたことが問題解決に繋がったのだと思う。


◆夢は?


伝える手段のない人たちが、伝えなければならない大切なことを、これからも多くの人たちに伝えてゆきたいと思う。

大高未貴公式ホームページ「大高未貴の世界見聞録」
http://www.miki-otaka.com/