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日本を建て替える!「木の城たいせつ」王


株式会社木の城たいせつ

代表取締役社長

吉村直巳氏

2022.4.22  10:00


株式会社木の城たいせつ 吉村直巳氏

◆業種

建築総合請負業

 

 

◆子供のころになりたかったものは?

 

プロテニス選手。

 

母が若い頃バスケットをしていたので、小学校ではバスケットクラブに所属していたが、進学した中学校にはバスケット部がなかったため、先輩のすすめもあり軟式テニス部に入部したのがきっかけ。

 

中学ではレギュラーになったが、軟式テニスはダブルスしかない。

 

テレビで見るプロテニス選手は硬式テニス。

 

「やっぱりこれだろ!」と思って高校からは硬式テニスをすることにした。

 

当時、地域でも実績のある高校を受験しテニス部に入部した。

 

私以外の新入部員は、各地の1位等、テニス推薦で入学してきた精鋭ばかり。

 

プロテニス選手も多く輩出し、同じ地域のベスト1位から3位は常に同校。

 

勝てないなんて悔しい。

 

この中で1位になるには誰よりも練習をするしかない。

 

といってもテニス部の練習自体が1年365日一日も欠かさず朝から晩まであった。

 

修学旅行も行かない程。

 

監督が技術より体力という主義であったため、朝は6:30~練習が始まり、昼休みも練習、授業が終わると20キロ先にある学校の練習場まで走る。

 

荷物は監督が車で運んでくれるが、帰りは2時間かけて電車で帰るという生活。

 

試合が近くなると、平日でも学校や監督宅での合宿が始まる。

 

練習量の増加はもとより、「食事はたくさん食べろ!特に白米を」と言われ、合宿の弁当は白米がてんこ盛りだった。

 

先輩が残した白米もおかずなしで山盛りたべさせられた。

 

子供の頃はたくさん食べては寝る子で、両親も美味しそうに食べるから喜んで食べさせてくれた。

 

かなりぽっちゃりしていたのだが、テニスを本格的にするようになって痩せてしまった。

 

痩せていると更に食べろと言われるので、もう飲み込むしかなかったことを思い出す。

 

男子校の体育会系なので先輩は神様。

 

先輩との上下関係は厳しく、パシリにされたり、言葉使いが悪かったらラケットで叩かれたりしたが、一年生同士は仲が良かった。

 

最終的には7人いた同級生は5人に減ってしまったが、「先輩は神」という伝統と文化は自分たちで終わりにしようと決め、後輩に同じことはしなかった。

 

監督の誕生日は元旦なので、卒業生のトップランナーがお祝いに来る。

 

毎年、元旦は朝からコート整備であった。

 

父は「直が元旦からがんばっているから、3年間は正月旅行に行くのはやめよう」といってくれた。

 

3年生になると、テニス推薦の大学が2校あったが腰痛分離症になったり、疲労骨折になったりしたので、テニスを本格的に続けることはあきらめた。

 

ところが、テニスしかしていない高校生活。

 

中学生の頃、数学が好きで全国統一テストで満点1位になったこともあった学力が、ぐっと下がってしまっていた。

 

テニス推薦でない大学を受験して落ちてしまったので、父に「大工になります!」と伝えると、「ちょっと待て、海外に提携校があるから受けてみないか?」と言われた。

 

それならば!海外に行こうと受験し合格。

 

海外の短期大学でアカウンティング(会計科)を1年半で卒業し、4年制大学に編入をすることにした。

 

いくつか候補があったが、第一言語が英語でテニスも続けられる大学に進学した。

 

大学を卒業後、日本に帰国し、外資系企業へ就職した。

 

入社2年目、地方自治体の首長選挙に関連する業務のために選挙事務所へ出向となった。

 

マニフェストを配ったり、街頭演説で人員整理をしたり、あまり経験のできないことができた。

 

面白かったのは、選挙が優勢になってくると付け届けの手土産などが増えていき、劣勢になると減るという現象だ。

 

またある日、事務所近くの店でダンボールをもらってきてくれと言われ、一人で取りに行くとあっさり断られた。

 

断られたことを伝えると、同じ店へ再度、一緒にダンボールをもらいに行ってくれた。

 

その人が名刺を出すと、支店長が慌ててたくさんのダンボールを抱え飛んできた。

 

名刺一枚の価値を知り衝撃を受けた。

 

そのころ自分の周りにいた大会社の社長や支店長は皆、慶應大学卒業だったので 、慶應大学でMBAを取ることにした。

 

MBAを受験するにあたって筆記と面接があった。

 

一次試験の課題(自分自身に関することついて)に何を書いたらいいか父に相談すると「家のことを書けばいい」といわれたので、常に父から聞いている家に対する父の考えを書いて一次試験は通った。

 

筆記試験の日、大学受験を日本で受けたことが無かった為、皆スーツなのに私一人私服だったので焦った。

 

試験内容は、文章の中から飛躍と矛盾を5個ずつ見つけるというものだったが、何度読んでもどう見ても飛躍も矛盾もみつからない。

 

白紙はさすがにダメだろうと何か書いたがあまり覚えていない。

 

面接では、課題について質問されこちらも何を答えたかあまり覚えていないが、終わりの方に3人いた面接官で真ん中に居た方から、「吉村さんの言っていることがよくわかりません」「勉強しながら仕事もすることはできない」とはっきり言われた。

 

「できます」と答えると強めに「できない」といわれたので「仕事はやめて勉強に集中します」と答えると「お待ちしています」と言われた。

 

通常15分程度で終わる面接が30分ほどたっていたので、こりゃ落ちたかなと思った。

 

合格発表の日、落ちていたら恥ずかしいので、電話で問い合わせできる時間まで待って問い合わせた。

 

「502番ありますか」「502番ありません」落ちたかぁ~と思ったが、受験番号が間違っていた。

 

「505番ありますか」「505番合格です」

 

無事合格してMBA取得、最終学歴は『慶應』となった。

 

 

◆毎日欠かさずしていることはありますか?

 

祝詞を奏上する。

 

自宅にいるときは神棚の手入れもする。

 

縁あって神社を建築する依頼を受けるようになり、作法など知らないので失礼があってもいけないと思い神職の勉強を始めたことがきっかけ。

 

 

 ◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

 

 

私が25、6歳の頃、父のセミナーを始めて聞いた時。

 

父としてというより、一人の男の人として力になりたいと思った。

 

父は建設業を営んでいて、住宅建設の説明会を顧客向けに開いていたのだ。

 

説明会では「クレームだらけの建築業界を良い方向に変えていきたい」と熱く語っていた。

 

セミナーの内容で、「新築から10年か15年後、お客様の良いタイミングに無料で壁紙をリフォームします」ということがあった。

 

父は我が子が小さい頃、壁に「いらずら書き」をするたびに母が叱っていたのを見て、子供はいたずらが仕事だから、自由にのびのびと育てたいと思ったそうだ。

 

父は私が生まれた年に母と二人で建設会社を創業した。

 

私は男三人兄弟の次男で、母は子育てをしながらポケベル片手に父の会社の受付や事務をしていた。

 

父が起業するきっかけとなったのは、父の勤めていた建築会社は会社の売上が目標額に達した時点で会社を休業するという方針の社長だった。

 

そういう社長なら、急に会社を解散するということもあるかもしれない。

 

そうなったら妻や子供たちを食べさせていけなくなる。

 

そうなる前にいっそ起業しようかと考え、妻に相談すると二つ返事で了承された。

 

引くに引けなくなって起業したということらしい。

 

父は、8人兄弟の次男で、あまり裕福な暮らしではなかった。

 

父の宅地建物取引士(当時は宅地建物取引主任者)や二級建築士の資格取得のためのお金は姉二人が出してくれたそうだ。

 

家族思いの父は、常日頃から私たち三兄弟は「三本の矢」と教わった。

 

 

◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

 

「相手の気持ちや立場になって考えると、そこに答えがある」

 

父から教わった言葉。

 

 

◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

 

北海道へ移り住んだこと。

 

不思議な縁が続いた。

 

私は父に人を紹介するときは、強いることはせず会うときは必ず同行する。

 

ただし1回だけ、結構無理を言い、同行もせずに会わせたことがあった。

 

父に紹介された方から紹介された人物を、今度は父に紹介したときのことだ。

 

思うに、特に合わせたい理由などなかった。

 

なぜ無理やりにでもアポイントを取ったのかもわからない。

 

父からも「何で合わせたのか?お前も来ないし」と聞かれたが答えられなかった。

 

父は話の最後の方に出た、北海道で倒産した「株式会社木の城たいせつ」という建設会社を再建してみないかという話が気になるので行ってみようと思うと言う。

 

大学で知り合った妻とはまだ結婚前だったが、「木の城たいせつ」って会社知ってる?と聞いてみると、知るも知らないも木の城たいせつの本社がある栗山町に実家があり、北海道でとても有名な会社だと教えてくれた。

 

なんとも不思議な縁を感じた。

 

父も木の城たいせつの工場を見に行き、素晴らしい技術!これは残していきたいと思ったそうだ。

 

取引銀行に相談すると、リーマンショック直後で大反対されてしまったが、北海道庁等の後押しもあり、再建することを決めた。

 

私は、父に「お前のもってきた話なのだからやってみろ」と言われ5月10日から北海道へ移り住み、木の城たいせつの再建に務めることになった。

 

 

◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

 

木の城たいせつを再建し始めてから8年間、売上をいくら上げでも現金がないと経理に言われた日々があった。

 

引き継いだ初月から3千万円現金が足りないと言われ、営業に奔走した。

 

着任前の初年度は、1億5千万売上げても2億円の債務超過であったが、着任後の2年目から7,8億円を売上、黒字に転換。

 

ほどんどの社員は、再建前から残っている平均年齢57歳の人たち。

 

赤字をつくったのも、今の黒字にしたのも同じ社員。

 

ずっと一緒にいて、とにかく話を聞いて、たくさん話をした。

 

◆夢は?

 

長い期間にわたって繰り返し住まうことのできる木造住宅をつくり、神社の再建や、非住宅の分野においても木造化による環境に配慮した建築をし続ける事。

 

昔からの木造建築技術を使い、地域材や国産材を循環させるために極力使用し、木造建築物を住宅や非住宅建築物でも可能な限り木造化を進める。

 

やるべきことに使命を感じる。

 

 

株式会社木の城たいせつ

 https://kinoshiro.com/


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