世界を感動で繋ぐスプレーアート王



Sprayart Sden

梅澤 洋平氏

2012/8/25 1000


梅澤洋平
ベロニカとうめ
ベロニカとうめ

 

◆業種

スプレーアーティスト


◆子供のころになりたかったものは?

1
、仮面ラーダー

カッコイイから

2
、外国人と結婚する!!

7歳の時、近所の焼肉屋に家族で行った。

すると、長野の田舎には珍しく、外国人が数人で食事をしていた。

何だか嬉しくなって、「イエーイ」等と言いながら愛想を振り撒くとテンポ良く応えてくれる。

なんて楽しい人々だろう!

食事を終えた頃、その中の少し年配の女性が自分に向かって「おいでおいで」をしている。

近づくといきなりほっぺに「チュー」をされた!

7歳の少年に、衝撃と感動が走り、「あー絶対、外国人と結婚するーーー!」と心に誓った。

ずっと外国に行ってみたいと願っていたら、中学3年の始め、市の企画で短期留学の募集があった。

1週間無料で海外に行ける!

早速応募したら、16名の募集で応募したのは18人。

しかも会場に着いたのが一番早かったので、一番目にくじを引ける!

これなら行けそうだ!

くじを引く瞬間。

張り切って引いたら、なんとハズレだった。

完全に行けると思っていたので、とてもショックが大きかった。

しかしそれと共に、海外に行きたい!という気持ちが、以前より強く揺ぎ無いものになった。


◆毎日欠かさずしていることはありますか?

妻にメールを送ること!

日本で基盤をつくろうと、妻をメキシコに置いて来たため。

一緒にいてもケンカはするが、一日の終わりには「大好きだよ」等と良い言葉を言って必ず仲直りする。

最愛の妻だ!


◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

本:

本田健著「ユダヤ人大富豪の教え」

高校の国松先生がくれた本。

行動を起こすことの大切さを教えてくれた。


◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

 
「やらなきゃ変わらない」

自分の経験から得た言葉。


◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

1、 高校最後の春休みに1ヶ月間の短期留学のしたこと

中学・高校と野球に没頭しながらも、海外に行けるチャンスを探していた。

高校卒業の半年前、春休みを利用して1ヶ月間海外留学できるところはないか探した。

予算には限りがある。

アルバイトして貯めたお金、総額30万円で賄わなければならなかった。

当時は今ほど円高ではなかったので、オーストラリア50万円、カナダ60万円!とても足りない・・・。

そんな中、全て込みでマルタ島28万円というのを見つけた!!

マルタ島とは、イタリアの下の方、地中海に浮かぶ島だ。

公用語はマルタ語と英語だし、通貨も今はユーロになってしまったが、当時はマルタリラで物価も安く治安も良いという。

早速電話して即決した。

夢と希望に溢れ、ワクワク気分で行ったところ、クラスメートは60歳のエストニア人の女性ただ一人。
 
その人は弁護士で、英語の勉強に来たのだという。

毎日、教室には二人だけで同年代の友達も出来ない。

しかも彼女は、主婦でもあったので授業が終わるとサッサと帰ってしまう。

正直つまらなかった。

留学して一週間した頃迷子になった。

すると、通りかかった日本人の女性が「何してんの?」と声を掛けてくれた。

神戸から来たという少し年上のその女性は、聞けば同じ学校に通っているという。

彼女のクラスは、同年代の友達がたくさんいて、翌日皆に自分を紹介してくれた。

ベルギー人やイタリア人等、皆凄くやさしくオープンだ。

自分を見かけると、コイよ!コイよ!と大歓迎してくれる。

人のやさしさに感動し、喜びに溢れ楽しい毎日を過ごした。

彼女のお陰で、素晴らしい思い出が出来た。

「恩返しをしたい!」と申し出ると、「それは後輩に返してあげて!」と言う。

更に、感動!

心が洗われたようだった。


2、 大学入学直後、社会を見たとき。

高校卒業時、進路について父と意見が合わなかった。

自分は、どうしても英語が勉強したかったので大学進学を希望。

しかし、父は公務員で厳しく、消防士になれという。

どうしてもイヤだ!というと野球を続けるなら大学進学を認めてくれるという。

しかし、英語の勉強に集中したかったので、野球部には入りたくなかった。

新聞奨学生(新聞社の奨学金を受け、住込みで新聞配達する)になって大学に通うから親の世話にはならない!と宣言した。

すると、そこまで言うならと入学当初掛かるお金を貸してくれ、大学は指定校推薦で英語科のある大学に入学が決まった。

大学に入学して直ぐ、新聞配達の仕事を始めたが、契約では一日6時間労働だったはずなのに14時間も働かされた。
 

苦しかったがこれは凄い残業手当がつくのだろうと最初の給料を楽しみにしていると、一日6時間分の給料しか入っていない。

どうしてなのかと営業所の人に尋ねると、これは雑務だから給料は発生しないという。

そんなことがあるのか!と思ったが、若干18歳だったし野球部で厳しく躾けられたので年上の人にあまり強くは言えなかった。

新聞奨学生の紹介元に連絡しても、のらりくらりと交わされ何の対処もしてくれない。

更に、そこで働く人々にも驚かされた。

昨日まで普通に会話していた人が、集金のお金を持ち逃げしてしまうこと等もよくあり、短期留学の時に感じた、人の良さや優しさやとは真逆の世界を見ているようだった。

少し我慢してみたが納得いかず、同僚や両親に愚痴をこぼした。

母に電話してこぼしていたら、父から電話が掛かってきた。

あの厳しい父が「辛かったらやめていい。」という。

もうその言葉を聞いたとたん号泣してしまった。

母はやさしく好きだったが、それまでは父がいやだった。

中・高の野球部時代は、両親でいつも応援に来てくれ、母の撮った写真の総数は4000枚にもなる程熱心に応援してくれた。

父はビデオを撮ってくれたが、帰ってからアドバイスされることが“うざくて”たまらなく、よく喧嘩をしていた。

教え方がとても厳しく、子供の頃からイヤだったのだ。

しかし、思い起こせば物凄い愛情を注いでくれたことがわかる。

この時にやっと気づき、感謝でいっぱいになった。

しかし、辞めて帰る訳には行かない!

何とか現状を改善しようと思った。

高校の先生がくれた、本田健著「ユダヤ人大富豪の教え」を読んで何か行動を起こそうと思っていた矢先、同僚の人に「そんなにいやだったら営業所を変えればいいじゃん!」と言われた。

その言葉に背中を押され、その日から3日間、新聞奨学生の募集がないか色々と電話をかけまくった。

しかし、どこももう募集は終わっているという。

それでもかけ続けていたら、読売新聞本社の人が気に留めてくれた。

電話応対してくれた上司の人が、「君は昨日もかけて来たね。一度本社にいらっしゃい。」という。

早速約束した日時に、本社へ訪問した。

立派な受付があり、Tシャツにジーパンという場違いな姿で行ってしまったことを後悔したが、ちゃんと約束通り中に通してくれた。

訳を話すと「明日からでも来なさい」と、営業所を紹介してくれた。

そこの営業所は、一日5時間も働くと「はい、学生は返って勉強!勉強!」という。

更に、少しでも広告の折込を手伝おうとすると「いつまでも居るとクビにするよ。」と言われる。

給料も一万円程、前のところより良く、こんなに違うものかと驚いた。

その上、2年間父に最初払ってもらった学費を返そうと思っていたが、父が「もういいよ」という。

父がお金を出すから、そのお金は自由に自分のことに使ってもいいという意味だった。

そのお陰で、念願だった海外留学が果たせた。

感謝、感謝、感謝だ。

今では父と一緒に飲みにも行くし釣りにもいく!仲も良い。

短期間に、人や社会の裏表を観た気がした。
 

この経験は人生に大きな影響を与えている。
 


◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

ついつい安定した生活を送っていると、これで良いのかと思う。

生活のためには良いのかもしれないが、やりたい事からズレいることに気づけないときがある。

だから、常に「これでいいのか?」と自分で自分に問う。

大学を卒業と同時にインドのIT企業に就職した。

翻訳や、社員向けに外国語の先生をすることが仕事だ。

しかし、インドの文化、仕事の仕方が全く合わず仕事にならない。

3
ヶ月でそこを辞め、ウィーン、オーストリアに足を運んだ。

しかしお金もそこを着き、働かなければならない。 

日本食のレストランなら雇って貰えるだろうと思ったが、経験がない上、言葉が通じないのでどこも雇ってくれない。

いくつも当たっているうち、やっと台湾人の経営する日本食レストランで働くことが出来た。

しかし、自分のやりたいことは違う。

このままじゃいけない何か行動しなきゃと思い、今の嫁であるベロニカに出会い、ホームステイさせてくれるかと聞くと、OK!OK!おいで!おいで!という。メキシコへ行くことを決意!
 

その言葉を信じて一週間後にはメキシコに到着。

まさか本当に来るとは思っていなかったらしく、ご両親には大変驚かれたが受け入れてくれた。

仕事は、彼女の母がトスタダ(皮の固いトルティーアのような食べ物)の店を持っていたので彼女と一緒に手伝った。

そのうち、1店舗を任され2店舗に拡大し、販路も開拓。

コンビニなど200店舗に卸していたときもある。

メキシコは日本と違い、書類で契約したりはしない。

直接商品を持っていって、「いる?」「買う」というようなやり取りで成立する。

ましておまけを付けるという習慣がなかったので、5個買ってくれたら1個おまけを付けるといったら飛ぶように売れた。

メキシコでのビジネスは成功したといえる。

そして今年の(2012年)4月、彼女と結婚。

安定した収入を確保出来たが、これは生活のためにしていること。

本当にやりたいこととは違う!と思っていたので、結婚したとき彼女に何がしたい?と尋ねた。

すると、アート系の仕事がしたいと言う。

絵を描きたいというのだ。

確かに彼女は、絵やマンガが上手だった。

しかし、それで生計を立てて行くのは並大抵ではないだろう。

どうしょうかと考えているとき、お祭りでスプレーアートに出会った。

スプレーアートはメキシコが発祥の地だ。

イイネ!!

二人の意見が一致した。

メキシコは大きなお祭りがしょっちゅうある。

これなら行けそうだ!

インターネットで調べると、Youtubeで作品の描き方がたくさん出てきた。

見よう見まねでやってみると結構上手に出来た。

早速、祭りに出展してみると2日間で妻の絵が3枚売れただけ。

これでは話にならない。

自分たちの出展した店の3メートル先でも、スプレーアートをやっているというので行ってみた。

自分たちの作品は上出来と思っていたが、その人の作品を見たら本当に素晴らしく差は歴然だった。

思わず、尊敬と羨望の眼差しで見てしまい、お金を払ってでも教えて貰うことにした。

次の日から自宅に呼んで、1週間でマスターできるように教えて貰った。

次の祭りからはメキシコの方に大盛況をよんだ!!
 
そこで、まだあまり知られていない、今度は日本で挑戦してみたくなりやって来た。

妥協や安定に甘んじることが自分にとっては問題なので、常に自問自答して軌道修正している。

◆夢は?

妻ベロニカと一緒に世界中の色々な人と触れ合い、スプレーアートを通して感動を与えたい!


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コメント: 1
  • #1

    小宮山知世 (月曜日, 17 9月 2018 10:39)

    元気ですか?私って元気です。浅間中学校の同級生です。テレビをみました。がんばってください。私にもえのプレゼントをぜひぜひください。お願いします。よろしくお願いします。お願いします。よろしくね。お願いします。えのやつをがんばってください。がいじんさんきれいです。結婚式をおめでとう。披露宴をおめでとう。おしあわせにいてください。がんばってください。おうえんをしています。よろしくね。よろしく