日本を良くし人に良くすることが己に戻る薫化王


ビィー・トランセホールディング株式会社

代表取締役

吉田 平氏

 

2013.4.3 1300


宮崎浩治

 

 

業種

旅客サービス事業

 


子供のころになりたかったものは?

鳥のように、一人で空を飛びたかった。

小学校に入ったばかりの頃、空を飛びたくて、ダンボールで羽を作り、両手にくくり付けた。

鳥のように優雅に飛べるはず!と思って崖から飛び降りたが、手を羽ばたくどころか万歳した格好のまま墜落。

足をくじく怪我をしたが、家族は慌てるというより呆れていた。


毎日欠かさずしていることはありますか?

毎朝目覚めたら、大宇宙・大自然があって両親があってこそ、自身の存在があることを太陽に向かって、感謝している。

次に妻と娘に感謝。

その次に、会社の理念を心の中で唱和し、グループ内3社の各社長に感謝し、社員の名前を唱え、今日も一日一緒にがんばろう!という気持ちで二礼二拍手一礼をする。

これは、どこにいても出来るので、出張先でも毎日欠かさずしている。


自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

デンタルサポート株式会社の寒竹郁夫社長

人には色々なタイプがあると思う。

寒竹社長が、逆境にも立ち向かい、自ら志をもって切り開いていくタイプだとしたら、私は与えられた場で志をつくり上げていくタイプのように思う。

私には2歳年上の兄がいるが、中学のとき、その兄がバレーボール部を作った。

私も兄の作ったバレーボール部に入り、そのまま高校、大学とバレーボールを続けた。

大学では、海水をH2Oにしてそこからエネルギーを取り出す事が出来ないか?と考えた。

研究者になろうと考えたこともあったが、先輩が三井物産に入社したので「お前も受けてみろよ」の一言で三井物産を受け、内定をもらった。

その頃、バレーボール部で、各大学の取りまとめ役をしていたので、リクルート社のリクルーターにアルバイトできる学生を紹介してほしいと頼まれた。

何人か紹介したら、お礼がしたいと言われ食事をご馳走になった。

その場で、リクルート社に就職しないかと誘われ、食事をご馳走になったこともあり、リクルート社に入社すると約束してしまった。

当時、リクルート社はまだ無名だったので、周囲の人間にとっては考えられない決断だったと思う。

結局、リクルート社で12年間働いた。

その中で遠足前日の子供のように、ワクワクした気分を毎日味わえた期間があった。

入社して4年程たった平成5年の頃、FAXを使った新規事業が立ち上がった。

FAXを1枚送信する作業をするだけで、予め登録していた100箇所へ同時に送れるというサービスだった。

当時としては画期的で、それまで郵送で送っていたものをFAXするのだから、コストは3分の1に激減。

その上、封緘作業や郵送期間を合わせるとかなりの時間を短縮できる。

お陰で、当時、参入が難しかった官公庁でもすんなり通った。

当時の社長の発案で、リクルート側で作ったワンポイント情報などを掲載して同時にFAXすることにした。

ほしい情報が書いてあれば、受け手も読んでくれる可能性が増す。

このサービスは、生命保険の外交員などから引く手あまたになった。

コンサルティング営業の力量によっては得意先が益々増え、自分たちで作った情報を提供できる喜びを味あうことができた。

35歳の時、父に家業を継いでくれと言われた。

サラリーマンとして満足していたので迷いもあったが、父に「トップとして最終決断が出来る方が面白い。」と言われ、社長になることを決意。

それから10年間、赤字も立て直しながら会社を大きくしてきた。

そして45歳のとき寒竹社長に出会った。

その時、寒竹社長から倫理法人会を紹介され、千葉県美浜区で開催されるモーニングセミナーに毎週、朝6時から出席するようになった。

その当時は、寒竹社長が会長を勤めていたが、寒竹社長から、次の会長に任命された。

「はい」と受けるという倫理の教えを実践、次期会長を引き受けた。

そのうち、寒竹社長が千葉県全体の会長になり、私は三役の一人に任命された。

事務長だったが、経理関係はもちろんのこと役目は広報だ!と言われ、寒竹社長と一緒に倫理法人会の認知度アップに努めた。

倫理法人会は、ロータリークラブやライオンズクラブに比べると認知度が低い。

そんなとき、いすみ鉄道の社長公募があった。

それを見た寒竹社長が、いきなり「応募しろ!」と私に言った。

いすみ鉄道の社長が倫理をしているとなれば、それは広報活動のひとつになる!という。

更に寒竹社長は、私が千葉に路面電車を走らせたいと思っていることを知っていたので、将来のためにも鉄道に関わっておくことは良いことだ!と進めてくれたのだ。

公のためにしたことは徳積みになり、自分の幸せに繋がる。

学びを深めてゆく中で、グル-プの会社はそれぞれ代表者を指名し任せ、私は、いすみ鉄道の社長に応募することにした。

330人の候補者から選ばれ、いすみ鉄道の社長を引き受ける事になった。

毎日いすみ鉄道の始発に乗って出社し、トイレ掃除をするなどして従業員とのコミュニケーションを図った。

テレビや新聞でも話題になり、車両を使って倫理の勉強会を開いている所が取材された。

新聞には、勉強会の様子を撮影した写真がカラーで掲載された。

いすみ鉄道は代々、千葉県知事が社長を兼任していたという流れもあって、当時の知事から後任を引き継いでくれないかと話があった。

もちろんお断りするつもりで、父と一緒に知事に会いに行った。

父が、色々とお断りする理由を話している間、私はずっと黙っていた。

しかし、知事が「610万人の公の仕事は、もっと素晴らしい仕事ですからぜひ、引き受けてほしい。」とおっしゃった時、思わず「はい」と返事をしてしまった。

魂の言葉に聞こえたのだ。

そこで、知事に立候補したが、森田健作氏に破れ自分の会社に戻った。

私は、今まで何も断らず、新しい概念を創り上げてきた。

国を良くするという事は、いずれ自分に戻ること。

倫理との出会いや、日本創生の実践など、寒竹社長が私に与えた影響は計り知れない。


自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

「志」

母は、子供の頃から何かと「おてんとうさまは見てるよ。」と私に言った。

人前でどんなに格好つけても、嘘をついても「おてんとうさま」はいつでも見ている。

逆に、一生懸命したことも見ていて下さるから、「一生懸命していると良い事あるよ!」と教えてくれた。

父は、タクシー会社でありながらバスの営業権を日本で始めて取得し、女性乗務員の採用も日本で最初に始めた人だ。

それまでは、タクシー会社の位置付けが低く、バス会社がタクシーを始めるは許されても、その逆はありえなかった。

父がタクシー会社を始めたきっかけは、元々の家業が雑貨屋と米屋だったことに由来する。

遠洋漁船に米や雑貨を卸していた。

これが売り上げの大半をしめるのだが、支払いは後払いで船が帰ってきた半年後。

仕入れは現金なので、銀行でお金を借りたら金利がつく。

当時は金利が10%だったから儲けはほとんどなかった。

そんな父が、タクシーに乗ったときあることに気づいた。

当時タクシーは現金商売のみ、どんなに無愛想でもお客を目的地に運べば確実に現金が入る。

ここにヒントを得て、最初は5台からタクシー会社を始めた。

また、雑貨屋時代、プロパンガスの普及に伴ってプロパンガスの代理店をしていたこともある。

当時のプロパンガスにはメーターが付かず、「ガスが無くなった」と連絡が入ると交換し、1本単位で販売する。

引き上げたものは、ガスを満タンに足してまた売る。

ところが、冬場はガスの出が悪くなると家庭ではガスが無くなったと思って注文が入る。

引き上げてガスを充填すると、まだ底にガスが残っているものは1本分より少ない量ですむ。

その残っている分は儲けになるのだが、正義感の強い父はガス会社にメーターを付けることを提案し採用された。

幼い頃から「人のために役立つことをする」という姿勢を両親の背中から学んだ。

他にも哲学や倫理や宗教などからも学ぶ事もあるが、それを素直に受け入れられる心を育ててもらった事に感謝している。

それらが「志」の幹を育てる種となって、今の自分があるのだと思う。

我が家は、両親を始め、祖父母や叔母が同居していて、人を信じ、人は良きものとして観ていく性善説の家系で育った。

愛されて育った子供が、自然と人を愛するように、志が自然と根付いた。

しかし、感化されたのではなく、家系の中で育つうち薫化(くんか:徳によって人をよい方に導くこと。)されたのだと思う。

私は、先祖の徳によって守られていると思う。

この家系のよりよき空気の中で育ったことに感謝している。

志をもって実践していると本質や真理が観えてくる。

会社を引き継いだ頃は、挨拶を広げることを目標としていたが、挨拶は手段だと気づいた。

“多くの従業員とともに挨拶を広げる実践を通した日本創生!”この志をもって、自分もお客様も幸せになる。


人生の転機はいつどんなことでしたか?

寒竹社長との出会い

最初に出会ったのは、新幹線の中。

商工中金の勉強会が名古屋であったので、それに参加した帰りのことだった。

他の参加者は皆、宿泊するのだが、どうしても抜けられない用事があった私は、日帰りすることにした。

寒竹社長も同じだった。

席は、商工中金がとったので隣合わせたのは偶然ではないが、二人揃って日帰りにしなかったら出会えていない。

しかも話をしてみると、私の兄と同じ高校の同級生で、兄のことはよく知っているというではないか!?

この出会いがなかったら今の私はない。


問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

リクルート社に入社して二年目のとき

リクルートで広告を取る仕事をしていたとき、初めてビックスポンサーの担当についた。

デザイン関係の専門学校で、年間の売り上げは、その一校だけで年間2億数千万円。

当時、私個人の売り上げ目標の約90%を占める程だった。

しかし、そのビックスポンサーを特に私が担当を希望したわけではなく、前任の担当が課長に昇進したため、たまたま私に回ってきたのだった。

理事長のところへ、前任の課長と一緒に新任のご挨拶に伺った際、理事長からいきなり「君はうちの学校の担当を希望したのかね」と尋ねられた。

とっさのことで私は、「あっ・・・うっ・・・」と言葉に詰まり、正直に希望した訳ではないことを話してしまった。

これが第一印象となった。

いい雰囲気になるはずがない。

ここの学校の理事長室には、リクルート担当者の専用机と席が用意されるしきたりがあった。

しかし最初から用意されるのではなく、着任してから毎日足しげく通い、認めて貰えると理事長の隣に席が用意される。

通常1ヶ月程するとだいたい用意されるのだが、私の場合は1カ月半。歴代の営業マンで、専用机と席がもらえるまで一番長くかかってしまった。
そして、理事長室には、私の浅い社会人経験では考えられない様々な人が訪ねてくる。

そんな理事長とは、どうにも違和感があり、心の肌が合わなかった。

しかし、ビックスポンサーだけにそんなことは言っていられない。

前任の担当だった課長が、影で動いてくれたこともあったようだ。

人の気持ちを掴む事が出来なかったという敗北感もあってか、毎日顔を合わせるのが苦痛になった。

職場に行きたくなくて、山手線に乗って延々ぐるぐるしていたこともある。

また、他に担当しているところが栃木と新潟にあり、そこで新規を増やして理事長のところに行く日を減らしたりもした。

今風の言葉で表現すれば「鬱(うつ)」になりかけていたのかも知れない。

しかし、1年半後、担当を外れて思った。

私は、広報担当として、生徒募集について一生懸命に考えただろうか?

それでも理事長は、私の提案する生徒募集の広告などを快く受け入れてくれ、色々と心を通わすチャンスもくれたりした。

そんな感謝の気持ちと、一生懸命、学校のことを考えなかった申し訳なさから、その後25年間、理事長宛に地元の梨を送り続けた。

今は、心のキビの大切さを学ばせてもらったと感謝している。


夢は?

千葉に路面電車を通す!

 

 

 

世界の中の「幕張(マクハリ)」を100年、1000年の計として創りたい

2年前に亡くなった母は、足が悪かったので電車やバスの乗り降りに苦労した。

段差のないLRT(路面電車)を普及したいと考えている。

また、このLRTは、海浜幕張の地に構想中の国際的な統合型リゾート(IR構想の)地で走行する予定だ。

今では、世界に名だたる都市、パリ、ミラノも最初からパリ、ミラノではなかった。

 

 

 

日本における横浜、神戸も最初から横浜、神戸ではなかった。

 

 

 

時の為政者、市民が、ある時を境にその地に夢と志を持って新しい街を創り上げたことにより今がある。

 


富士山の見える海岸線有する素晴らしい景色をもった「幕張」。

 

 

 

この地を日本創生の起爆剤=IR構想実現の地としてその実現を目指したい。

 

 

 

ビィー・トランセホールディングス株式会社

http://www.be-transse.com/