人生設計と楽しく雅な仲間と「元気に世界に役立つ」王


 

元 千代田化工建設株式会社 代表取締役社長

有限会社ソリューション・アイズ・イニシャテイブ

及び情報企画倶楽部 代表取締役 

北川正人氏

 

2014.9.12 1430


北川正人

 

業種

 

弊社は、いわゆる経営コンサルタント会社でございますが、日本をはじめ、アジア、中近東、アフリカ、中南米などの発展途上国において工業化開事業を推進する中小企業、大手企業より様々なご質問をいただきます。

 

それに対して、長年培って得た情報と人脈を基に、事業への対応方法についてご意見を申し上げ、また、指導をいたしております。

 

 

子供のころになりたかったものは?

 

1936(昭和11)年、アメリカ・カリフォルニア州のバークレーで生まれました。

 

父も母も当時にしては珍しく、カリフォルニア大学バークレー校で学び、父は現地で日本企業に入社し、働いておりました。

 

そして同じ大学で学んだ母と結婚し、私が誕生いたしました。

 

1人っ子であったため、過保護で育ったせいかと思いますが、電車の運転士さんになりたいとか、軍人さんになりたいといった具体的な職業を思い描くことはなかったように思います。

 

とにかく可愛がられて育ちましたので、自分はこうしたいといったことを口にしたり、周囲の人たちと喧嘩をしたりということもなく、内気でおとなしい子どもでした。

 

1941(昭和16)年12月に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃する直前に、第二次大戦が始まりそうだということで、アメリカから日本に向けて出航出来る最後の船、日本郵船が所有していた遠洋航路客船の竜田丸(たつたまる)で、同年8月に、アリューシャンを経由して帰国いたしました。

 

それが5歳のときでございます。

 

後年知ったことですが、この航海は国による緊急の帰航命令であったため、準備不足から航海中に食中毒者が大勢出たようです。

 

また、開戦後は兵員輸送船として徴集され、1943年にトラック島に向けて航行中に米国軍の潜水艦に攻撃されて1300名近い方が亡くなっています。

 

それはさておき、私が初めて覚えた日本語は「バカヤロー」でした。

 

初めて住んだ横浜での子供達の仲間は、なぜか「戦争ごっこ」と「バカヤロー」が多かった様に記憶します。

 

母と私を乗せた竜田丸は横浜港に着き、母に手を引かれて揺れる桟橋を降りましたが、これが私にとって初めて踏む祖国の土でした。

 

戦争が始まると軽井沢に疎開いたしました。

 

自然の中で育ったことが、成人後の健康への原点になったと思います。

 

父は帰国して日本の本社で働きましたが、終戦直後は、一時的に函館市の臨時市長に就いて、函館に上陸したアメリカ軍の受け入れ折衝を行いました。

 

その後は、東京に戻り、国際貨物を取り扱う会社を興し、戦後の日米貿易に関わっておりました。

 

父も母も日米間の円滑な関係維持の為に尽くしており、その姿を間近に見ておりましたので、私は、今の若者たちがそうであるように、外国人に対して違和感を持つことなく育ちました。

 

1970年代後半に日本は海外旅行ブームを迎え、多くの方々が外国人と接するようになりましたが、それ以前は、海外駐在員やその家族など一部を除いた多くの方々は、英語がわからないということもあって、外国人を見ると、できるだけ関わり合いを持たないようにしたものです。

 

しかしながら私の場合は、どこの国の方々とも、知り合ってすぐにフレンドリーな関係を築けました。

 

ただ、母がしつこく私に英語を勉強するよう仕向けましたので、逆に英語がきらいになってしまったのですけれども……

 

少年時代はおとなしい性格でしたので、入学出来た慶応義塾中等部では動物愛好会やコーラス部に入っておりました。

 

ところが、高校に進学した頃になると反抗期を迎え、過保護状態から抜け出したいと考えるようになりました。

 

そして、そのためには男臭いスポーツ部に入部するのが一番よいと思ったのですが、私は小柄で、足も遅く、ベースボール、バスケットボール、テニスボールと種類を問わずボールが怖い。

 

要するに、運動向きではないのです。

 

それでも、どうしても運動部に入りたい。

 

色々調べてみると、ボートの舵手であれば、運動部でも全く運動をせずに、号令の声だけ出していれば良いことを知り、慶應高校2年に進学するとボート部に入りました。

 

大学1年の時にボートの全日本レガッタに出場しました。

 

ところが、42校中ビリの成績です。

 

先輩からひどく叱られ、1年間の合宿練習を命じられました。

 

合宿ですから大学には通えません。

 

私は講義もあまり受けずに、1年間、毎日、朝から晩まで荒川でボートの練習に励みました。

 

しかし、幸いにも監督、先輩方に恵まれて、大学2年から4年迄、3年連続、全日本レガッタで優勝いたしました。

 

さらに驚いたことに、私は運動を全くしないボートの舵手であったにも関わらず、日本スポーツ賞を受賞いたしました。

 

優勝盃を3度も手にできたのは、試合に勝つために、自分で考えて具体的な目標を立て、その目標に向かって、チームが一丸となって、ひたすら練習に励んだことが奏功したのだと思います。

 

真面目に、勤勉に練習に励み、チームワークを大切にする。

 

他者と協力し助け合う「和の精神」を、私自身はこのときの経験によって身につけ、どんなに困難と思えることでも、情熱と信念を持って挑めば、必ずやりとげられるということを学びました。

 

そして、いよいよ就職して社会人になるわけですが、じつは内定していた就職先が不況のため採用取消となってしまいました。

 

もっとも、このことが私にとっては幸運となるのですが、早速、学校の事務局の採用試験案内の張り紙を見に行ったところ、千代田化工建設で新卒者採用試験があることを知りました。

 

まだ創設9年の若い会社です。

 

現在ですと、ネットで検索すれば、大概のことはわかります。

 

しかし、当時はそんな情報は手に入りません。

 

いったい、どんな会社なのか、建設関連という以外わからず、とにかく少しでも情報を集めたいと思い、周囲に聞いて回りました。

 

それでも詳細はつかめなかったのですが、「千代田化工建設というのは、将来、日本の発展に寄与する会社らしい」という噂を耳にして、「それならば、やりがいがある」と考え、入社試験を受けてみました。

 

当時は大手企業ではなかったので、私は思いがけず簡単に採用されました。

 

それが高度経済成長期に差し掛かろうとしていた1959年(昭和34)年のことです。

 

就職後の研修期間は3ヶ月間でしたが、その後、配属されたのは、鶴見工場事務課でした。

 

しかし、私は、当時の日本人なら誰でも身につけていた算盤ができません。

 

おまけに大学を出たといっても、4年間、毎日、ボートの練習で川の上におりましたから勉強もできません。

 

そのため、管理部門には向かないと言われ、三重県四日市コンビナートにあったプラント建設の工事現場に事務員として出されました。

 

このプラント建設の監督チームは、アメリカの会社でした。

 

通産省(現・経済産業省)の指導で、このプラント設計建設は日本で初めてプロジェクト・エンジニアリング手法を導入したのですが、私はそこで初めて、母親から嫌というほど言われていた英語の必要性を身にしみて感じたわけです。

 

そして、先ずは監督の奥様から英会話の特訓を1年間受けました。同時にプロジェクト・エンジニアリング・システムの神髄を懸命に習得出来た事は幸いでした。

 

この四日市の工事現場は1年で終わり、さて、次はどこに異動になるのだろうと思っておりましたら、「おまえは現場向きだから」と言われ、岡山県倉敷にある水島コンビナートの工事現場の資材倉庫係を命じられました。

 

水島コンビナートは、第二次世界大戦中に開発が始まった日本でも有数の巨大コンビナートです。

 

初めの仕事は、70万坪の土地全体に除草工事の監督でした。

 

工場の敷地内も街も、労働者であふれ、活気だけは現在とは比較にならないほどありました。

 

同時に現場資材倉庫の管理担当でした。

 

ところが、肝心の資材は欠品が多くて、部品が揃いません。

 

今では考えられないことですが、当時の日本では、品質管理の意識も希薄だったのです。

 

私は部品調達や納期督促に奔走しました。

 

そうこうしているうちに、下請けの部品メーカーから「面白い奴だ」と可愛がられるようになり、私の担当するものだけは、全て納期通りに納入されるようになりました。

 

いうなれば、仕事で成果をあげたわけですが、これが功を奏して私は入社後、初めて新橋にあった本社に戻り、本社購買部工程管理課に配属となりました。

 

ところが、ここでまた、私の転機が訪れます。

 

購買部ですから、水島コンビナートや四日市コンビナートの現場で仲良くなった営業部の方々と顔を合わせる機会もあります。

 

先輩たちは私に、「なんだお前、購買にいるなら営業に来いよ」と声を掛けてくださり、入社後3年半目にして、ようやく待望の営業部に配属となりました。

そして、ここで、それまでの経験が活かされたのです。

 

営業活動に出ると、私は工事現場や資材機器について詳しかったので、「説明が上手い」と信用されました。

 

じつは、大学を優秀な成績で卒業し、初めから営業部門に配属された方々よりも営業成績がずば抜けて良かったのです。

 

ボート部時代、必要に迫られて培った「自分で考えて目標を設定し、その目標に対して勤勉・真摯に取り組み、チームワークを大切にすること」といった経験が無意識のうちに発揮され、さらに、入社初期の下積み時代に「現場の仕事に触れたこと」が営業活動に生きたわけです。

 

「若いうちの苦労は買ってでもせよ」という諺があるとおり、入社後の数年間は、初めから格好の良い職場に配置されるよりも、「何で自分はこんなところで働かなければならないのだろう」と感じるくらいの下積みを経験したほうが、その人の人生を大きく飛躍させる原動力になると思います。

 

私自身について申しますと、下積み時代も、花形の営業部に異動してからも、何か苦しい場面に遭遇しても「ダメだ」とか「俺にはできない」と思ったことは、一度もありません。

 

また、自分をカッコ良く見せようと思ったこともなく、自然体で過ごしておりました。

 

これは、人それぞれの性格や考え方にもよりますが、私の経験から申しますと、自分の人生を左右する就職先は、これからの時代を先取り出来る企業のほうが活躍の場があり、楽しいと思います。

 

発展性のある産業か、斜陽産業かを見分けることは、昨今のように、何事においても変化が激しい時代では難しいのですが、ひとつ言えることは、人類の歴史をふり返りますと、衣食住に関わることや医療、軍事産業は廃れたことがありません。

 

毎年お正月の新聞からは、将来世界は何を求めていて、どの様な知識を持てばその時代に必要な人材になれるかが読み取れます。

 

 

毎日欠かさず行っていることはありますか?

 

30歳の頃に、1年間クエート国営石油会社のコンサルタントとして派遣されましたが、空いている時間にヨーガを始めました。

 

それ以来、今日までの45年間、毎朝1時間ほどヨーガをしております。

 

ヨガにはいくつものパターンがございますが、私は、一番簡単な基本動作だけを自己流に組み替えましたので、長年、無理なく続けられております。

 

この20年間は、毎朝自分で野菜ジュースを作って飲んでおります。

 

 

自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

 

千代田化工建設株式会社の創設者である玉置明善(たまき・あきよし)社長、営業担当の徳弘勢也(とくひろ・せいや)副社長のおふたりから、経営の神髄を手ほどき頂きました。

 

さらに、出来るだけ沢山の有名な方々とお会いしてお話を伺い、握手をするように心がけました。

 

手を握ると、相手の心に触れられるように思います。

 

例えば、パレスチナのアラファトさんには何回もお会いしましたが、手のひらがマシュマロのように柔らかくて温かく、今でもその感触を鮮明に覚えております。

 

師となるのは、人だけではありません。

 

日米間の各種経済委員会、日本EU経済ラウンドテーブル、ダボス会議等、私が参加出来た国際的な会議の全てが私の人生を支えた先生です。

 

そこでのエピソードは山のようにあり、語り尽せないほどです。






自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

 

「日々新たに」と思って毎日を生きております。

 

これは聖書の一節です。

 

 

人生の転機はいつどんなことでしたか?

 

大きな転機は3つあったと思います。

 

以下に、ご説明いたします。

 

転機1:大学時代

 

先にもお話いたしましたが、大学1年生の時の全日本レガッタで、私の艇が42校中42位とビリになったことから、先輩は怒りだし、選手一同、髪を坊主にされたうえ、「この1年間は学校に行くな! ボートの練習に専念しろ!」と言われました。

 

その後、4年間、坊主で通しました。

 

大学2年生の1年間は、「徹底した練習計画の策定」、「監督の指導のもと自分のチームに合った漕法の模索」を行い、その漕法に合った艇の設計は工学部で検討してもらいました。

 

同時に、練習に専念する中で、チームのメンバーが助け合いながら、お互いの心を1つにすることや、時には喧嘩もいたしましたが、本音で語れる友人関係も築くことができました。

 

さらに、試合当日に体調を壊してはせっかくの努力も水の泡となりますので、健康管理にも徹底いたしました。

 

その結果が、翌年の全日本レガッタ優勝という栄誉でした。

 

ボートのコックス(舵手)は一番後ろで掛け声をかけ、舵を引くだけですが、漕手は進行方向に向かって背を向けたままボートを漕ぐので、行く手に何があるのか見えません。

 

即ち、私が漕手8名と試合の全容を見渡す司令塔でありました。

 

責任重大な役割です。

 

他の艇はどうなっているのか、自分たちのチームの漕手の状態はどうなっているのかなど、試合全体を見通し、適切な掛け声をかけるポジションの重要さを知り、試合のときだけでなく、毎日の練習でも真剣勝負で挑まねばならないと実感しました。

 

大学の講義はほとんど受けなかったので、法学の知識は身につきませんでしたが、チームワーク作りの大切さも学び、ボート部での4年間が、後の企業経営に大いに生かされることとなりました。

 

転機2:千代田化工建設入社後

 

2つめの転機は、入社3年半目に、会社の売上げの半分に匹敵する大口のプラント受注を決めた時です。

 

営業部に異動して3ヶ月間、毎日通っていた顧客事務所の中を歩いていると、髭を生やした外国人のお客様から突然「会社の仕事(プロジェクト遂行)の進め方」について質問されました。

 

私は、それまで工事現場におりましたので、立ち話のまま、詳細な業務遂行要領を紹介いたしました。

 

すると、その外国人のお客様はその場で、「おまえの会社にプラントを任せる」とおっしゃり、大口のプラント受注が決まったのです。

 

まさに青天の霹靂、棚からぼた餅です。

 

驚くやら嬉しいやら、商売とは何なのかがわかったような気がいたしました。

 

そして、この時、「商売は見積もり金額ではなく、担当者の信用力なのだ」と実感いたしました。

 

同時に、1年間かけて四日市の現場で特訓を受け習得した英会話力に感謝いたしました。

 

「営業活動」に値する言葉が、アメリカでは「セールス」と「マーケティング」との2つに分かれております。

 

「セールス」とは、売るものが、例えば自動車とか、すでに完成された商品を如何に沢山売るかを担当する営業行為であります。

 

「マーケティング」とは、まだ世の中にないものであっても、新たに仕組みを構築し、顧客の利益を如何に生むか、同時に、自分の会社もその活動で利益が生まれることを企画し、完成させる為の営業行為をいいます。

 

即ち、原料の調達から製品・サービスが最終顧客に届くまでの企業活動、原料、技術、人材、製造工場、製品、資金手当等を一連の流れで捉え、全ての活動を通じて顧客と自社が共に、付加価値を創出できるようにする行為であります。

 

また、海外との取引では、相手国の世界感、常識を知ることが先ず大切です。

 

無論、自分の国(日本)のことは何を聞かれても答えられるだけの知識——日本国内の情勢はもちろんですが、歴史、食文化、絵画や歌舞伎、茶道などの伝統文化、さらには最新の流行についても話題にできることが大切です。

 

たとえば、外国人のお客様とお寿司を食べに行ったとします。

 

その方がマグロを召しあがって、「クロマグロは絶滅危惧種に指定されましたが、このマグロは何という種類ですか?」と質問を受けたとします。

 

も ちろん、私たち日本人でも、産地まではわかりませんから、そういう時には、カウンター越しにいる寿司職人さんに聞くわけですが、マグロといっても、クロマ グロやキハダマグロなど色々な種類があり、さらに天然ものと、養殖ものがあることなど基本的知識がなければ、質問を受けても、オタオタして苦笑いを浮かべ て誤魔化すことになってしまいます。

 

すると、日本人はニヤニヤと不気味な笑いを浮かべる、と思われてしまいます。

 

「イエス」、「ノー」の明確な意思表示が苦手なのは日本人の特性かと思いますが、国際ビジネスの世界では、こういう曖昧な態度は通用しません。

 

ま た、最新流行の話題ということでは、今ですと、日本はアニメーションで海外の若い方々には知られておりますので、マンガの話や、「ふなっしー」や「くまも ん」のようなマスコット、「妖怪ウォッチ」のようなゲームソフト、音楽でいうなら、欧米でも活躍している「きゃりーぱみゅまみゅ」さんの話などができる と、外国人のお客様でも若い方であれば、最新情報を手にいれられた!とお喜びになるでしょうし、お年を召した方でも、新しい知識が増えたと満足されるで しょう。

 

このように、日本のことを紹介できるだけ知識を持つとともに、外国の方々の価値観というものも知っておかなければなりません。

 

たとえば世界地図でいいますと、代表的な世界地図が3つあります。

 

世界地図というと、「メルカトル」、「モルワイデ」、「正距方位図法」など何種類もありますが、私が申しますのは、こうした図法の違いによるものではなく、地政学的、国際政治学的に描かれているものです。

 

先ず、私たちが日常的に目にするのは、日本が真ん中にあるアジア中心の地図です。

 

2番目は、世界で最も代表的な、イギリスのグリニッジが真ん中にある地図です。

 

左側にはアメリカ大陸、ヨーロッパの西の端、ポルトガルから東洋の西の端にあるインドまでが、イギリス中心に左右に配置されるように描かれ、これはイギリスからインド迄で使われています。

 

インドは長い間、イギリスの植民地でしたから、大英帝国の繁栄が、地図にも表れているわけです。

 

3番目は、アメリカ大陸が真ん中にある地図です。

 

この地図では地図の右端にも、左端にもインドがあります。

 

米国大陸やヨーロッパ大陸がまん中に描かれた地図を見ると、イギリスとアメリカは、日本人が思っているよりずっと近い場所にあります。

 

中でも南米ブラジルとアフリカの象牙海岸はたいへん近く、実際、両者は交流が盛んです。

 

イギリス・グリニッジ中心の地図を使用している民族から見ますと、地図の端にインドが描かれ、そこから東にあるアジア諸国は、どれも同じ魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界でした。

 

ちなみにヨーロッパの東側の「近東」は英語で「the Near East」、それより遠くは「極東」即ち、「the Far East」です。そして19世紀になりますと、これに「中東(the MIiddle East)」という概念が生まれてきます。

 

中近東(the Near and Middle East)という呼び名も、ウィキペディアなどの辞典には色々と書かれていますが、要するに、グリニッジ中心の地図の場合、イギリスとインドの真ん中にあるので中近東であります。

そして、こうした地政学上、国際政治学上の区分のほかに、規範・思想に基づく分類があることも認識しておく必要があります。

 

ア メリカ、英国などルールを大切にする法的規範の国々、スペイン、フランス、ドイツ、ロシアなどのヨーロッパ諸国、中国、日本、中南米などの道徳的規範を重 視する国々、アラビア諸国、アフリカ、中央アジア、インドネシアなどの宗教的規範に基づく国々、前述の2つ以上を合わせ持つ国々があることを渥美育子グ ローバル教育研究所理事長から伺い、もっともだと感じました。

 

余談ながら、渥美理事長は米国で国際コンサルタントとして活躍された方で、日米欧の大手企業のグローバル化を推進し、米国の「TIME誌」でも紹介されています。

 

国際的な仕事をする場合は、このような規範や思想に基づいた世界感、常識、大切にしている物事などが、国や地域により異なることを充分に理解し、国際的な感覚を自分のものにして対応する必要があります。

 

ゴルフの石川遼選手が初めてアメリカで試合に出た時、アーノルド・パーマー等の名立たる選手から、「ゴルフが上手くなりたいなら、大学に行きなさい」と言われたそうです。

 

しかし、結局、石川選手は進学しなかったのですが、なぜベテラン選手たちは彼に大学進学を勧めたのでしょうか?

 

2009年から慶応大学の慶應義塾長を務められている清家篤(せいけ・あつし)先生から、あるとき、とても印象深い言葉をうかがいました。

 

それは、「人間力」という言葉です。

 

人間には「知的能力」と、「人柄能力」を身につける必要があるそうです。

 

この2つが揃って「人間力」になるわけです。

 

知的能力は、自分の力で考える能力と目標・計画を立てて実行する能力です。

 

人柄能力は、真面目さ、勤勉性、他人を助ける心です。

 

石川選手の場合は、ゴルフを通じて無意識のうちに明確な目標達成と、それを実現するための努力と勤勉性を身につけ、さらにチームワークの意識を高めることで人柄能力も鍛えられる。

 

おそらく、アーノルド・パーマーが石川選手に大学進学を勧めたのは、大学のゴルフ部ではこうした2つの力を同時に学ぶことができ、「人間力」を身につけられると言いたかったのでしょう。

 

相手を知り、仲良くなることが出来れば、とことん話し合えます。

 

さらに、相手を知ることで、それまで無関係であったものが組み合わされて、新しいものが生まれる可能性があります。

 

一 般には、身の周りの人の知識と自分の知識の融合だけで終わってしまうのが常ですが、その人の持っている能力や経験などの多様性を重視しつつ、異業種技術交 流、異文化交流をはかることで、新たなアイディアも生まれやすくなり、それが新しい技術や商品を生み出す可能性へとつながっていきます。

 

アンテナを360度に張り巡らせ、多様な背景を持った人が居る組織ほど、革新への可能性が大きいと言えます。

 

転機3:31歳の時

 

1964年の東京オリンピックの後、日本は不況期に入りました。

 

東京湾は公害で汚染され、沢山の石油・化学コンビナートから発生する公害も社会問題に発展するほど環境汚染は深刻でした。

 

私は、これを逆手にとり、営業活動に生かせないものかと考えました。

 

それまで千代田化工建設の営業部門は、顧客からの引合に対応する「セールス活動」を中心としていました。

 

しかし、実を言うと私は、営業部内では他の人と違う動きをする問題児でしたので、除け者にされておりました。

 

チームワークを大事に考えていても除け者にされているわけですから、自分で新たなチームを起こすしかありません。

 

除け者のままでは、居場所がありませんから。

 

そこで私は、新たに「公害対応を考えるマーケティング活動を行なう部門」というものを作りました。

 

もちろん、会社組織ですから、当時の社長の了解は得ておりました。

 

最初は、社内で交流を深めていた1人を誘い、彼と2人で始めました。

 

チームというよりコンビといったほうが適切な新部門でしたが、直ぐに成果が出始めて1年後には8人、7年目には70人の陣容となりました。

 

成果が出るということは、マーケティングによる営業活動が世の中から求められているということです。

 

私はこの経験を通して、エンジニアリング会社には

マーケティング活動が必要であることを痛感いたしました。

 

同時に、70人の陣容となると、けっこうな大所帯です。

 

そこで、これを「営業企画グループ」と名付け、それから7年後には「営業企画本部」にまで発展しました。

 

同じ頃、私はライオン歯磨の常務になられた家山さんからプロダクトマネージャー制についての講義を受けました。

 

どういうものかと申しますと、

ひとつの事業では、顧客獲得からプロジェクト完成まで縦割りで進められるのが常ですが、プロジェクト完成を目指す中で、若手の人材によって横串を刺し、社内の各部門を説得して仕事を進めることにより、智の結集が出来ます。

 

同時に、この若手の担当者は、様々な経験を積みますので、将来のマネージメントに育て上げられます。

 

プロダクトマネージャー制は、プラント設計・建設という公共性の高い千代田化工建設の使命において、より安全性が高く、効率性にも優れたプラントをつくりだし、同時に、優れた人材を育成できるという一石二鳥の利点があります。

 

私は営業企画グループが発足してすぐ、この考え方を取りいれました。

 

そしてこのことは、それまでの私の企業人生の中で、思想転換のきっかけにもなりました。

 

話は変わりますが、1960~1970年代の高度経済成長期を経て、1980年代にバブル経済期を迎えた日本は、1991年から93年にかけてバブル崩壊の時期を迎えました。

 

それまで工業立国として盛んに進められてきた工業化の促進も止まってしまい、千代田化工建設にも大不況の嵐が襲いかかりました。

 

会社は大赤字となり、1996年には経営危機に直面いたました。

 

立て直しを計るために、私は社長を拝命いたしましたが、旧知の間柄であったアメリカのモービル石油ノト会長に指導を仰ぐことにいたしました。

 

ノト会長は、「全ての資産を売却しても、赤字を一掃しない限り会社は立ち上がれない」とおっしゃられ、たしかにそのとおりだと私も思いましたので、厳しく苦しい選択ではありましたが、あらゆる資産の売却とリストラを断行いたしました。

 

人件費を捻出するだけの体力が、会社にはもうなかったのです。

 

リストラの対象となった社員の転職先を探し、会社再建への光を見出すまでに4年かかり、私は会社再建という自分の役割を終えて、退任いたしました。

 

 

問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

 

全く自然体で乗り越えております。

 

ただし、人生設計は大事です。

 

以前、経済同友会のOB会、同友クラブで、「2050年の世界」を予測した、英国の経済誌「エコノミスト」の執筆陣によるセミナーがありました。

 

そこで私は、本の著者であるジョン・アンドリュース氏に、なぜ2050年なのかと尋ねると、学問的な分析では世界経済や新技術開発については30年から35年先のことまでしか予測できないとのお話でした。

 

予測できる範囲で予測し、こういう世の中になりそうだから一緒に努力しましょう!とういうことだそうです。

 

人生設計も同じではないでしょうか?

 

今の自分をベースに、30歳、40歳、50歳の節目に世の中がどのように変化しているかを模索して、その時に自分が必要な人材となっているには、何を勉強し、どういう行動をとれば、世の中で必要とされる人材に自分が育つのかを考える必要があります。

 

しかし、人生設計どおりに進む間に、その時点の自分が予想より良い状況にいたら、前進するスピードを落とさないと、逆に、将来失敗する可能性が生まれます。

 

基本的なところを押さえておきさえすれば、人生はお気楽極楽です。

 

目標に向かって正確に、急がず慌てず着実に階段を上ることがベストと思います。

 

 

夢は?

 

昔からの仲間と共に情報交換をしながら夢を語り、次世代の若手の方々に、我々シニア世代が共有する常識と経験を伝え、将来に繋げることです。

 

退職後、早速現在の経営コンサルタント事務所を設立いたしました。

 

現在15年目に入りますが、毎日、沢山の方々がご相談にお出でになります。

 

嬉しいかぎりです。

 

さ て、この事務所を設立する際に、金属加工の東京鋲鉦工機株式会社の築比地康子(つきひじ・やすこ)会長から、「いくら栄耀栄華を誇っても、会社を退職した ら、自分の仲間は散っちゃうから、散っちゃわないように、一緒に楽しめるシステムをつくっておくと良い」と教えていただきました。

 

早速、私の事務所では1ヶ月4グループ、各12名のメンバーで夕方から一杯の飲みながらの情報交換会を発足させました。

 

毎月参加するメンバーは40名弱です。

 

この各業界で活躍された方々の集まりが今日迄15年続いているのですから、コンサルタントの私が知らないことでも、これだけのメンバーがいると、誰かが知っているので、互いに有効な場としても楽しんでおります。

 

現在は、幾つかの企業からの依頼を受け、「世界動向認識と事業活動目標設定への考察」、「中近東・アジア・アメリカ・中国等の考察」、「世界石油・エネルギー事情」、「プロジェクト・エンジニアリング」等をテーマとして、定期的な講演をいたしております。

 

他にも、楽しい仲間と集いながら、世の中に役に立つ事を模索いたしております。

 


コメントをお書きください

コメント: 1
  • #1

    富田 靖 (日曜日, 09 7月 2017 18:02)

    今日、霜辻さんから北川さんのお話を伺いました。そして、このヒーローズインタビューを見て感心いたしました。そして、奥様が加賀の前田百万石のお殿様の娘さん。
    私は、昭和13年生まれですが、金沢市横安江町で生まれ、泉丘高校、金沢大学工学部電気工学科を昭和36年に卒業し、旧松下電王(株)(現パナソニック(株))に勤務し、退職後は、大阪府枚方市でパソコン教室をやっています。何か、不思議なご縁を感じております。



 

ヒーローズ一覧