放射線医療の最前線で人類の未来に貢献する守護王



()放射線医学総合研究所

緊急被ばく医療研究センター長

杉浦 紳之氏

2011/10/5 1000


杉浦紳之

 

◆業種

研究職、医学博士


◆子供のころになりたかったものは?

研究者

子供の頃から、母に「どうして?」とよく尋ねる子であった。

また、何がどうなって・・・ということを一言でわかるようになるまで調べたり、考えたりした。

逆に、よくわかれば一言で言表すことが出来るのだ。

だから、調べることも勉強することも好きだった。

自分で言うのもなんだが、言われなくても良く勉強する子供だった。



◆毎日欠かさずしていることはありますか?

早起きを心がけている。

毎日、朝6時台に起きる。

大学院生の時は完全に夜型であった。

大学院生の時代は、社会人と違って原稿の締め切りや、その日のスケジュールに決まりがない。

大学院生は修士論文や博士論文など何年かかかってまとめる研究をするので、24時間を好きに使えばよいと考えていた。

その経験を踏まえて考えると、やはり朝早く活動を開始した方がうまく事が進むようだ。



◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

周りの人々にとても恵まれていると思う。

特定の人物はいないが、色々な方々から、それぞれに、その時々で良いところを学んできた。

社会人になる際の面接で、「尊敬する人物は?」の質問に、
「どんなに偉い歴史上の人物でも、人格から全てが素晴らしい訳ではない。その人の功績が凄い訳であって、人物丸ごと尊敬するひとはいない。」というようなことを言って、推薦して下さった教授を焦らせたことがあった。

かなり生意気なタイプだ。

それでも、中学生の時から友人が多かった。

自分の記憶では、友人が話している中に自分が加わって行く、3番目タイプだと思っていたが、回りからの評価は「いつも皆の真ん中にいるね。」だった。

自分と周りの認識の違いに気づかされた出来事だ。

そういった事を含め、多くのことを友人からも学んだ。

また、中学、高校と水泳部に所属していた。

中学の先生は、自分が進んだ高校の卒業生で水泳部に所属していた。自分もその高校に入学し水泳部に入部した。出会いに感謝している。

高校の水泳部の顧問の先生は、もう他界されてしまったが、本当に多くのことを学ばせて頂いた。その先生のおかげと思うが、高校時代の水泳部員とは、今でも定期的に会って交友を深めている。
人生のある時期に、他のことをほとんど忘れて何かに打ち込む経験はなかなかできないが、貴重であり、本当の財産であると思う。



◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

「やろう!」

学生時代、水泳部の練習メニューは部長が決めるのだが、毎回、「腕立て100回」とか「50mを10本泳ぐ」等と発表される度に皆「えーーー」と叫ぶ。

しかし、これは出来るかどうかではない。

まず「やろう!」と思うことが大事なことなのだ。



◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

小学1年生の時、難病になったこと。

最初は「足が痛い。」から始まった。

母は整骨院に連れていってくれたが、一向に良くならない。

外科に行っても整形外科に行っても治らない。

ようやく、いくつ目かの病院で病名がわかった。

難病で、大腿骨の骨が関節にくっ付いて固まってしまわないように、寝たきりになって常に引っ張っていなければならない。

小学校2年生の1学期から、養護学校が隣接された病院に入院した。

入院患者の中には、一生治らない病気の子供もいる。

その子たちに比べれば、寝たきりといってもいつか治る。

介護担当の先生に「君たちは治るのだから!」と勇気付けられた。

学校には通えないので、病室に先生が教えに来てくれる「ベットサイド教育」を受けることになった。

最初は、自分と1学年上の子と一緒の授業だったために、1年も先の問題を一緒に出された。

今も悔しくて覚えているのが、算数の問題「11−9=」だ。

繰下がりの引き算なんて習ってない!

小学校2年生になったばかりの自分に、解ける訳がないのだが、わからないことが悔しくてたまらなかった。

そこで3年間を過ごした。

今は健康になり、そのお陰でレベルの高い授業を受けられたのだから、と感謝している。

また、医学には大変お世話になった。

そのためもあって、大学進学のとき、医者を目指すとことも考えた。そのときは、医者はどちらかというと1対1で対応し個人を助ける職業だと思っていた。

できれば、より多くの人に影響を及ぼす、公害や、食品、環境といった公衆衛生に関わりたいと考えた。

当時は、東京大学の医学部に保健学科というのがあったので入学した。

そこで、人類生態学、環境と人について研究したいと思い、大学院にも進んだ。

放射線との出会いはその頃である。



◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

正直あまりない。

子供の頃に、大変な病気を乗り越えたせいか、問題があっても障害だと思えないのかも知れない。

辛かった時期といえば、思いつくのは浪人時代。

大学入学前の1年間だ。

それでも、「何でも、やれば出来ちゃう」と常に思っていたから、挫折とは言いがたい。

今、自分を振り返ると「生意気な子」だったと思う。

大学で教えていて思ったのだが、学生は大きく分けて3種類に分けられると思う。

1つ目は、聞かれたら答えるタイプ

2つ目は、聞かれなくても呼び止めて教えたくなるタイプ

3つ目は、聞かれても教えたくないタイプだ。

その中でも、自分は「聞かれても教えたくないタイプ」だっただろう。

そのくらい生意気だったのだ。



◆夢は?

家族仲良く!

家族あっての自分だと思っているからだ。

また、人を助けることが自分の使命と考えている。

その一つは、放射線を「目に見えない、訳の分からないもの」から「皆が知っているもの」にすること。

火事や交通事故が怖いことは、小学生でも知っている。

例えば、子供を送り出すとき「行ってらっしゃい、車に気をつけてね。」「うん!わかっているよ。大丈夫だよ。」という会話をよく耳にする。

その「車」くらい、「放射線」のことを皆がわかっている世の中にしたいのだ。

もうひとつは、放射線を浴びざるをえない人の健康を守りたい。

この(独)放射線医学総合研究所にある「緊急被ばく医療研究センター」は、まさに被ばくした人の「最後の砦」と言える。

センター長として、できる限り研究を深めて行きたい。

近畿大学原子力研究所

http://kuaeri.ned.kindai.ac.jp/kenkyusho/kenkyushitsu_shokai/sugiura.html