防災で地球を丸ごと救う「公のために生きる」王


東京大学
教授
生産技術研究所
都市基盤安全工学国際研究センター長
工学博士

目黒研究室
目黒 公郎氏

2015.8.22 1400

1962年生まれ

出身地:福島県


目黒公郎

◆業種

 

大学教授

 

 

◆子供のころになりたかったものは?

 

「公の役に立つ男たれ」

 

公郎(きみろう)という名は、母方の祖父が「公(おおやけ)の役に立つ男たれ」という思いで付けてくれた名前。

 

この祖父は私が2歳の時に亡くなったので、この件について直接話をした記憶はない(ただし、同じ2歳の時の祖父との東京オリンピックに関わる記憶や祖父の葬儀の状況は、私の最も古い記憶の一つとして鮮明に覚えている)が、物心がついた頃から繰り返し母や親戚から聞かされていたので、常に「公の役に立つ男になる」というのが潜在意識の中にはあったと思う。

 

そして漠然とではあるが、公の役に立つためには、「何になる」よりも「何をやる」かが大切だと思ってきたし、公の役に立つ「何かを行う」上で「何かの立場があった方が有利」であれば、その立場や職業に積極的に就いた方がいい、と感じていた。

 

とは言っても、小学校くらいの時は具体的に多くの職業を知っていた訳ではないので、人を助けるといえば、医者か政治家かと思っていた。

 

 

◆どんな子どもでしたか?

 

大自然の中で育った子供時代

 

生まれ育ったのは福島県の南会津の只見町、大自然の中で子供時代を過ごした。

 

典型的なガキ大将でもあった。

 

冬になると積雪は、多い年には3,4メートル、4月になっても学校のグランドには雪が1,2メートル積もっている。

 

一晩で、1メートル以上の積雪があることもまれではないし、吹雪の時の登下校は本当に大変だった。

 

通学路の向きの関係から、朝は背中を押されて登校できたが、帰りは激しい雪吹雪で、正面を向いて歩くと呼吸ができないので、後向きで歩いて帰る。

 

低学年の子供たちは泣きながらの登下校であった。

 

今考えれば、「よく子供たちだけで毎日通ったもんだ。

 

大人たちや先生たちがよくその状況を許していたもんだ。」と思う。

 

父親が様々な事業をしていた関係で、我が家には毎日大勢の人が出入りしていた。

 

特別の行事があるわけでもない平日でも、毎日30人~40人の訪問者はあったと思う。

 

焼肉といえば、肉屋から肉を買ってくる場合もあるが、我が家で働いていた若い衆たちが、トラックの荷台に、羊や豚、仔牛などを積んで来て、これをさばいて、大酒をのみながら、母特製のたれ(これも大量に用意して)で1頭を食べつくすのが普通であった。

 

ある時などは、羊の屠殺の様子を見ていると、おなかの中から羊水の中で動く56センチメートルの羊の赤ちゃんが出てきたこともあった。

 

それをもらっていじっていると、温かかった羊水が冷えるとともに濁ってきて、中の赤ちゃんも動かなくなった。

 

働いている人の中にはマタギもいたので、熊の肉を良く持ってきてくれた。熊鍋をつくって食べた後の熊の頭蓋骨から、牙のついた顎を糸鋸で切り出して、これを武器として、腰からぶら下げていたが自分の足に当たって痛い。

 

そこで自分で、熊の牙を入れる袋をつくって、ぶら下げて歩いていた。

 

この牙入れは隣のおばあさん(このばあさんとは血縁関係は全くなかったが、家にずっと入り浸っていて、1年の中で300日以上は寝泊まりし、晩ご飯も毎日ご馳走になっていた。

 

ばあさんは私を自分の子供以上にかわいがってくれた。)に習って作ったものだ。

 

このおばあさんはお裁縫(和裁)の先生だったので、随分と難しい裁縫や編み物の仕方も教えてもらった。

 

金物を使って和服の袖の曲線をうまく縫う方法などまで学んだ。

 

これが面白かったので、釣竿入れや野球のグローブ入れなども作った。

 

おばあちゃんとは、魚釣りやドジョウとりをよくやった。

 

随分と山歩きもして、雪解け時には、ぜんまいやわらび、タラの芽やウドなど山菜を採った。

 

熊を見たこともあった。

 

秋にはキノコやアケビ、山葡萄をとったり、栗やクルミを拾ったりした。

 

これらを売ったお金で、野球のグローブやバットを買った。

 

山にはアブややぶ蚊などが多くいるので、タバコの煙を虫よけにした。

 

刻みタバコ用のキセルを腰に差して(熊の牙に加えて)歩く小学生だった。そんな話をすると「目黒先生はいつの時代の人ですか?」と言われるが、昭和の田舎の大自然の中で育ったのだ。

 

観察が大好きな子供だった

 

私は子どもの頃からいろんなものを観察するのが好きだった。

 

裏の川の岩の上から水中を半日ぐらいずっと眺めていると、私の気配はすっかり消え、様々な魚が出てきて、縄張りを争ったり、餌を探したりした。

 

誰もいない森の中のため池の縁に全く動かないでじっとしていると、様々な野鳥や野生の動物たちが出てきて水遊びしたり、魚を捕って食べたりした。

 

自分が自然に同化するような感覚があった。

 

庭先では、アリの巣を毎日ずっと観察した。

 

半日くらいずっと見ていると、個体の識別ができるようになる。

 

良く働くアリとあまり働かないアリがいることにも気づいた。

 

良く働くアリには、手柄を挙げられるように、甘いクッキーの欠片や虫の死骸を餌としてあげたりもした。

 

我が家を訪れる大勢の大人たちも、私の観察の対象であった。

 

父親のもとで働いていた人たち、喧嘩っ早い若い衆、近所の人たち、各地からの卸問屋や行商の人たち、様々な人たちがひっきりなしに出入りしていた。

 

私は新しい人が来ると、とりあえず、2,3の質問をして、その答えから、「この人にはあまり難しいことは聞いてはいけない」などと、勝手に判断し、答えてくれそうな話題の話をするような子であった。

 

今思えば、随分と可愛くない子どもだったと思う。

 

父は古いタイプの人、母は万能型の人

 

父はたたき上げで、若い時分から、様々な事業をしていた。

 

そんな関係から付き合いも多く、毎日のように酒宴に出ていた。

 

その後に、毎晩のように酔っ払いを10人くらい家に連れて帰って来て、家での宴会が始まる。

 

自分は酒がそれほど強くないので、酔っ払って先に寝てしまう。

 

後は母が面倒をみるしかない。

 

母は本当に大変だったと思う。

 

しかし文句一つ言わずに、お酒やつまみの支度、酔っぱらいの話の相手をしていた。

 

田舎の学校だったので、小学校や中学校では、母を教えた先生に私も教わった。

 

母のタキはスポーツ万能で、成績もずば抜けて良かったらしく、いつも「公郎はタキの子か。母ちゃんはすごかったぞ。」と言われた。

 

「時代や環境が違えば、凄い人になっていただろう」と、先生からも、親戚からもよく聞いた。

 

その母は、私のやりたい事はなんでも自由にやらせてくれた。

 

私が小学1年生の時の担任の先生は母を担任したことのある先生だった。

 

2年生の時の担任はとても厳しい先生で、いたずらをしてはよくビンタを受けた。

 

頬が赤く、熱くなった。

 

でもこの先生は私たちの面倒を本当に良く見てくれた。

 

私はこの先生が大好きだった。

 

3年生の時の担任は、クラスの生徒の成績を発表する先生だった。

 

勝手に、クラスで一番できると思っていた私は、発表された成績で自分が1番でなかったことに驚いた。

 

いい気なもんだ。

 

小学生の私は、体を動かす体育や図工が好きだったが、算数や理科、歴史なども好きだった。

 

両親からは「勉強しなさい」と、言われたこともなかったので、それまでとくに意識して勉強した記憶はない。

 

しかしが、自分が一番じゃなかったと知って、「よし、じゃー勉強するか」と思った。

 

算数、理科、社会の教科書を使って、自主的に予習をし始めると、とても面白くなって、やめられなくなった。

 

3年の教科書は全て1週間程度で終わり、担任の先生にお願いして、4年生、5年生、6年生の教科書を借りた。

 

半年もする頃には小学校の教科書は全て終わってしまった。

 

勉強が楽しくて、毎晩夜中の12時や1時までやっていたところ、父に「勉強なんかしないで早く寝ろ」と怒られた。

 

小学校4年生の担任の先生が、私の両親に「この子は、只見に置くのではなく、中央に出してあげた方が良い。」と言ってくれたとは、大人になってから聞いた。

 

高校は、会津高校という会津藩の藩校日新館の流れを汲む高校に通う事になったが、遠方で実家からは通学できないので下宿した。下宿先はりんごと米をつくっている大きな農家だった。

 

入学式前のオリエンテーションの時、私が使う部屋が決まらなかったので、当時で築150年を超える農家の母屋の座敷に1週間程1人で寝泊まりした。

 

その部屋は、床の間に古い掛け軸が飾られた天所が高い部屋で、照明は裸電球が1つだけでとても暗かった。

 

床柱には戊申戦争の時に付けられた刀傷や弾痕があり、甲冑や槍などが飾られていた。

 

隣は仏間であった。

 

夜、とても恐かったことを覚えている。

 

下宿屋の皆さんにはとても良くしていただいたし、下宿生同士も仲が良かった。

 

当時、下宿屋の農家は会津磐梯山の麓の開墾を進めていたが、その手伝いもした。

 

現在その場所はとても素晴らしい農場になっている。

 

お陰様でホームシックになることもなく、楽しい3年間の高校生活を送ることができた。

 

高校を卒業してから35年ほど経つが、下宿屋の人との交流は続いている。

 

今でも、りんごや果物を送ってくれる。

 

私は本当に人運に恵まれている。

 

今日のような立場で、今日のような仕事ができているのも、全てこれまでお付き合い頂いた方々のおかげであり、私の人運の良さである。

 

 

◆毎日欠かさずしていることはありますか?

 

意識して考える時間をつくること

 

学生にもよく話すことだが、人はどうしても易きに流されがちだ。

 

日常の忙しさにかまけていると、真剣に物事を考える時間をつることができなくなる。

 

1日30分でも良いから意識して考える時間を設けた方が良い。

 

時間帯や場所を決めてしまうと難しくなるので、特に場所や時間は決めていない。

 

どうしても時間が取れなかった日の翌朝は、なるべく考える時間を持つように努力している。

 

考える内容は、その時解決したい研究的な課題のみなならず、世の中の様々なこと。

 

防災に関しては、中央政府の人たちや政治家に現状をわかってもらうにはどうしたらいいか、市民の皆さんに具体的に効果的な防災対策を実施してもらうにはどうしたらいいか、などを考えていることが多い。

 

寝る前や起きる直前に、いいアイデアを思いつくこともあるので、手の届くところにメモ用紙を用意している。

 

立場上、行政の人たちに話をする事も多いが、そんな時はいつも次のような話をする。

 

一般市民の多くは、行政の皆さんが、何が出来て、何が出来ないのかがよくわからない。

 

少し工夫すれば実現可能かもしれないのに、「前例がないからできない」と言ったり、「やらなくていい理由」を捜して答えているように感じている市民も多い。

 

どんなことも最初は全て前例がない。前例は作ればいいだけのこと。

 

本来、法制度は市民の生活を豊かにするためにつくられたものなのに、いつの間にかそれを守ることが目的になってしまい、結果として、市民の生活を苦しくしていると感じることも少なくない。

 

行政の皆さんも、どこかの自治体に所属する一市民である。

 

視点を変え、「その一市民の立場から今の自分に、つまり行政の人間に何を期待するか」を真剣に考え、それに対して、誠実に答える努力をして欲しい。

 

これが出来れば、大きな問題は発生しないと思う。

 

 

◆研究を行う上で重要視していることは何ですか?

 

研究をする上で、「現場主義」、「実践的研究」、「最重要課題から取り組む」の3つを重要視し、モットーにしている。

 

1.現場主義

防災対策を検討する上では、実際の現場を見て考察することが重要である。また、○○大学の△△教授がおっしゃっているとか、◆◆という本に書いてあるなどを、そのまま鵜呑みにしてはいけない。

 

それらの根拠を自分で調べる習慣を持つことが重要である。

 

2.実践的研究

防災の研究の目的は、解決策を提案し、被害を減らすことだ。

 

ゆえにメカニズムがわかった時点でゴールと思ってはいけない。

 

そのメカニズムに基づいて、如何に課題を解決していくかが重要である。

 

3.最重要課題から取り組む

「この課題は論文になりやすい」という視点からは研究テーマを選ばないようにしている。

 

現場を見て、最も重要だと感じる課題から取り組む。

 

それが重要で、かつ解決されないで残っているということは、当然難しい。

 

しかしそれは社会に役立つ研究であるし、自然と論文にもなる。

 

 

◆自分の支えになった、あるいは変えた人物は?

 

1.伯野 元彦 先生

大学院生の時の指導教員で、教え子の私が言うは甚だ僭越だが、自由な発想をお持ちの本当に優秀な方で、考え方も生き方も非常にユニークな先生だった。

 

研究には、ある程度時間があれば、誰でも考えつくような課題を、誰よりも早く実施して論文にするようなものもあれば、その人が取り組んで実施しなければ、その後、しばらくは誰も似たような研究には気づかなかったのではないだろうかという研究がある。

 

伯野先生が取組まれた研究はいずれも後者の研究であった。

 

誰も思いつかないような研究テーマを見つけ、最初に取り組む。

 

面白い成果が出てきて、他の研究者が興味を持ち始めると、先生は既に先が観えてしまうらしく、「後は他の人たちに任せればいい」と、自分は他の研究にシフトする。

 

まわりの人たちは、「先生が先駆者なのだから、もう少しやれば、大きな成果も、名誉も得られるのに、なぜ止めちゃうのですか」と不思議がる。

 

実際、先生の研究成果を引き継いで研究した他大学の先生や研究者が、その分野の先駆者として扱われたり、脚光を浴びたりしたケースも少なくないが、伯野先生はそんなことは全くお構いなしであった。

 

また、先生に研究の成果を持って行くと、必ず「これは、面白いね。」と一緒に喜んで下さった。お陰で、こちらもうれしくなって、ますます頑張った。

 

しかし、後輩など、他の学生の様子を見ると、先生はどんな成果を持って行っても、いつも「面白いね。」とおっしゃっていた気もする。

 

伯野研究室の学生は、強制されないで、自由にさせてもらえるので、個性がどんどん伸びる。

 

結果として、伯野研究室のOBには、いい意味でも悪い意味でも個性的な人材が多い。

 

研究室を離れてからも伯野先生を注意深く観察させていただいているが、伯野先生は周りをその気にさせるのが上手いのか、本当に何でも面白いと思っていらっしゃるのかは、未だに良くわからない。

 

現在でも、伯野先生は、学会などでの発表で、聴衆が爆笑するような発表をなさる。

 

これも計算して笑わせようとしておられるのか、自然と面白いことをおっしゃっているのか、いまだによくわからない。

 

ところで、私の大学院時代の研究課題は、破壊現象をコンピュータを使ってシミュレーションする手法の開発であった。

 

通常の解析では、連続体を仮定するので変形は表現できるが、クラックが入り非連続になっていく破壊現象は表現できない。

 

応力や変位の連続を仮定しているからだ。これを、解析対象物を非連続体が連結している集合体として表現することで解決した。

 

博士論文研究で開発した解析手法は、ビルなどの構造物が、地震動などの外力を受け、健全な状態からクラックが入り、それが進展し完全崩壊していく過程を、統一的にコンピュータで解析する手法であり、これが当時世界初だったので、論文も多く書き上げることができたし、研究が本当に面白いと感じた。

 

しかし一方で、このような研究だけでは災害に強い安全な社会は実現しないとも感じていた。 

 

私の博士課程での研究業績は、伯野先生が指導教員でなければ達成することができなかったし、伯野先生の下での経験がなければ、私は研究者の道には進まなかったと思う。

 

後になって、自分が大学の教員になって痛感したことがある。

 

それは伯野先生のように、学生の主体性をとことん尊重し、見守ることの難しさである。

 

とくに若手教員の時代は、学生の研究成果は自分の研究成果としてとても重要だ。

 

普通は厳しく指導して、時間内になるべくいい成果を挙げさせようとするものだ。

 

「いいね。面白いね。」と、学生の思うようにさせることは、そうそう出来ることではない。

 

しかし伯野先生は、学生を完全に放牧状態にされたので、学生はそれぞれの個性で様々な方向に伸びていった。

 

2.片山 恒雄 先生

 

片山先生は私が学位を取得した後に、私を助手として採用してくださった先生。

 

私の職務上の最初のボスである。この就職に関しては、東京大学地震研究所教授の南忠夫先生にも大変お世話になった。

 

自分の研究室の学生でもない私を、片山先生に推薦してくださった。

 

そのお蔭で、私は助手として採用してもらうことができた。

 

私が最初に着任した職場は、東京大学生産技術研究所の国際災害軽減工学研究センター。

 

国連プログラム「国際防災の10年:IDNDR1991年~2000年)」を大学の立場から支援する研究センターであった。

 

センター長の片山先生に加え、バングラデシュとスリランカからの先生と私の4人の研究センターであった。

 

当時も国際化は叫ばれていたが、業務上の書類はすべて日本語。日本人は片山先生以外は私1人だったので、書類作りは何でもした。

 

お蔭で随分と書類つくりは早くなった。

 

当時片山先生は、世界の地震工学の研究機関を束ねる国際地震工学会(IAEE)の事務局長を勤めておられ(のちには会長に就任)、地震工学の世界では世界的な権威であった。

 

阪神・淡路大震災を受け、1996年に東大の定年を前に、乞われて防災科学技術研究所に異動され、所長、理事長を歴任された。

 

様々な叙勲を受けられるなど、防災研究をリードする先生だ。

 

片山先生とは世界中を一緒に周り、多くの国際シンポジウムや調査・研究を手掛けた。

 

それらの活動を介して、組織のマネジメントの仕方、会議の仕切り方、外国人との付き合い方等を学んだ。

 

研究も自由にさせてもらえたので、様々な課題に取り組んだ。

 

とてもエキサイティングであった。

 

周囲からは「博士課程でやっていた破壊シミュレーションにエネルギーを集中させれば、いくらでも業績を伸ばせるのにもったいない。なぜもっとやらないのか?」とさんざん言われた。

 

しかし、私としては、他の人もやりだしたし、あの研究だけでは社会の防災力は向上しないと考え、他の様々な課題の研究に取り組んだ。

 

今でも、災害現場に調査に行って、そこで重要であると感じたテーマを次々手掛けるので、通常の研究室が取り組む研究テーマの、少なくとも4,5倍の課題は同時に実施していると思う。

 

 

◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

 

「公の役に立つ男たれ」

 

祖父の言葉が一生を通して響いている。

 

防災の道に進んだ背景にも、精神の深いところで、祖父のこの言葉があったと思う。

 

もう一つは、子どもの頃に育った環境の影響が大きいと思う。

 

私が子供の頃に感じていた自然は、人間があがなう事や人間の働きかけでどうにかなるようなものではなかった。

 

川で友達が亡くなったり、洪水や雪崩の被害を頻繁に受けたりする状況を子供の頃からよく見ていたので、自然災害がなるべく少なくなる環境が実現できないものかと漠然と思っていた。

 

大学で地震工学や防災を学んだ時、「おやっ」と思った。

 

国内外の自然災害やその対策を学ぶことで、「防災は苦しんでいる人を一人一人を救うと同時に、その集合体、地域や社会、そして、国や地球全体を救う事ができるかも知れない。」と感じたのだ。

 

これは祖父の言葉と重なった。専門性を高めることによって、社会貢献ができる職業だと思った。

 

 

◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

 

1.両親の病気

 

東京に出て学生をしている時代、父と母が同時に死んでしまうかも知れない状況になった。

 

母の乳癌に加え、父まで病に倒れ、闘病生活が始まった。

 

私は4人兄弟の長男であり、学生を続けるべきか、故郷へ帰って家業を継いで、妹や弟の世話をするとともに両親を看護すべきか迷った。

 

母は、「しっかり勉強して、やりたいことを達成しなさい。」と言ってくれたが、どうすることが一番いいことなのか悩みに悩んだ。

 

今迄の人生の中で一番辛い時期だったと思う。

 

母は私が大学4年生の時に癌が再発、転移して、闘病の末亡くなった。

 

父は、当時国立がんセンターにいらっしゃった幕内雅敏先生という権威に診てもらうことができ、その後奇跡的に20年長生きできた。

 

私は大学を続ける事を決意し、弟が跡を継いでくれた。

 

弟は弟なりにやりたいこともあったと思うので、本当に申し訳なく思うとともに感謝している。

 

. 兵庫県南部地震と阪神・淡路大震災

 

兵庫県南部地震の起こる丁度一年前(1994年1月17日)の早朝に、米国カルフォルニア州ロサンゼルス市郊外のノースリッジでマグニチュード(M)6.7の地震が起きた。

 

この地震の前から、日本とアメリカの都市防災研究者の国際会議があって、日米交代でこれを主催していた。

 

次は日本がホストのタイミングであった。

 

日本側の関係者が集まって協議し、次の会議はノースリッジ地震の丁度一年後に開催することを決めた。

 

理由は、マスコミが取り上げやすいと考えたからだ。

 

次は開催場所だが、関東にするか関西にするかを議論して、関西での開催を決定した。

 

理由は関東に比べて関西の皆さんの防災に関する意識が低いこと、一方で関西での地震の発生が危惧されていたからである。

 

フィリピン海プレートが、関西日本がのっているユーラシアンプレートの下に潜り込む境界を南海トラフと言うが、ここでは毎年約4センチメートルの変位が進行している。

 

この境界の限界変位量は46メートル、毎年4センチメートルずつ累積していけば、100150年で限界に達する。

 

南海トラフ沿いには、「東海地震」、「東南海地震」、「南海地震」という3つの巨大地震(M8以上)を発生させる地域があり、これらがばらばらに起ったり、連動して起こったりするが、その回帰周期が安定的に100年から150年ということ。

 

これらのM8クラスの地震が起った後は、余震を除くと回帰周期の前半の5075年間は、関西地域は静かになって、後半に入るとエネルギーが蓄積してきたことを告げるM7クラスの地震が内陸の活断層で数回起こって、その後にまたM8クラスの巨大地震が起こるという繰り返しなのである。

 

ところで、その繰り返しの履歴の中の最後の地震は何時かと言うと、1944年の昭和の東南海地震と1946年の昭和の南海地震であった。

 

またこの2つの地震がこの地域で発生する地震としては小規模であったので、次の地震の発生までの時間は短めであろうと専門家は考えていた。

 

そこで短い回帰周期100年の半分を1944年や1946年に足してみると1994年、1996年になり、地震の少ない前半は既に終了したことがわかる。

 

今後は、いつM7クラスの地震が起こってもおかしくないのに、関西の人々の意識は関東に比べても低すぎる。その状況に注意を喚起する意味もあって、次の国際シンポジウムの開催を1995117日から大阪で実施することを決めた。

 

私は担当の係があったので、前日の1月16日に大阪の会議会場のあるホテルにチェックインし、その日の夕方は米国の研究者と打ち合わせした後に自分の部屋に戻って休んだ。

 

その翌朝、皮肉なことに、注意喚起の記者会見を行う予定の3時間ほど前の1995年1月17日午前5:46に兵庫県南部地震が起った。

 

私の部屋も激しく揺れた。

 

窓ガラスも一部割れた。

 

同僚の先生の奥様の実家(神戸市長田区)と連絡が取れないこともあり、2人で6時過ぎに神戸方面に向かった。

 

早朝で道も混んでなく、タクシーで割と順調に西へ向かい、午前中に神戸市内に入った。

 

しかし途中から西へ行けば行くほど、悲惨な状態になるので、乗車時には長田区まで行ってくれる約束だったタクシーの運転手さんも、途中から大阪に帰りたいと言い出した。

 

仕方なく途中でタクシーを下り、そこからは2人で走って長田区に向かった。

 

午後に何とか到着した時、同僚の先生の奥様の実家は全壊していた。

 

帰る手段もなく、近くの病院をベースに、一晩中、周辺を歩き回ったが、周りは火事だらけ。

 

病院にはけが人や死者が運び込まれてきた。翌日からは、被災者の皆さんと一緒に避難所生活を送った。

 

食料も少ない中、部外者の私が遠慮していると、地元の人が「食べな」と優しく食料を分けて下さったことを昨日のことのように覚えている。

 

そこで経験した事は、机の上で学んだ事とは大きく異なっていた。

 

例えば、日本の建物はもっと強いと教えられていたが現場は瓦礫の山だった。

 

そこで現場主義の重要性を痛感した。

 

自分の目で確かめて裏を取るようにしないと道を見違う。

 

被災した神戸の街を歩きながら、様々なことを、考えて、考えて、考えた。

 

地震の直後から体験した阪神・淡路大震災での現場経験は私の防災研究者としての原体験になっている。

 

 

◆読者の皆様にぜひ伝えたいことはありますか

 

・「防災から減災へ」は正しいのか?

 

東日本大震災以降、「防災から減災へ」という言葉を良く耳にする。

 

「事前のハード対策だけで全ての被害を防ぐことはできないので、事後対応を含めて被害を最小化しよう」という意味のようだが、私自身はこの「減災」には、以下の2つの理由から違和感を覚える。

 

1つ目は「防災」の定義に関しての理解不足である。防災に関する最も重要な法律「災害対策基本法」の第一章(総則)の第二条の二で、「防災は災害を未然に防止し、災害が発生した場合における被害の拡大を防ぎ、及び災害の復旧を図ること」と定義されていて、この中には被害抑止(狭義の防災)はもちろん、災害対応も復旧も入っている。

 

「防災から減災へ」と言っている人は、災害対策基本法の最初の部分も読んでいないのかと思ってしまう。

 

少し補足すると、現行の災害対策基本法には災害のタイミングを活用して、被災前に抱えていた問題の解決を含め、被災地を発災以前よりも改善する「復興」の考え方が不足していたので、東日本大震災を踏まえ「復興法」が設立された。

 

2つ目は、現在わが国が直面する規模の地震被害(最悪ケースの被害総額は、国家予算の数倍、GDP4060%にも及ぶ)では、事後対応を主とする対策では復旧・復興が困難なことへの理解不足である。

 

有限な時間と資源を前提とする防災対策では、適切な優先づけが必要となり、通常はリスクの大小がその基準として用いられる。

 

リスクは「ハザード×バルネラビリティ」で定義されるが、ここでハザードは「外力の強さと広がり×発生確率」、バルネラビリティ(脆弱性)は「ハザードに曝される地域に存在する弱いものの数」である。

 

結果としてリスクは「起こったときの被害の規模×発生確率」になる。

 

ここで、低頻度巨大災害と高頻度中小災害を比較すると、巨大災害では低頻度が効きすぎると相対的にリスクが小さくなり、その対策が後回しになったりするが、ここには落とし穴がある。

 

リスクの概念で優先順位をつけてもいいのは、「起こったときの災害の規模が対応母体の能力で復旧・復興できるサイズまで」ということ。

 

「防災から減災へ」の言葉には、事前の抑止対策は難しいので、事後対応で被害の最小化を目指そうという意図が強く感じられるが、我が国が直面する巨大災害は事後対応のみによる復旧・復興が困難な規模である。

 

国の存続が重要であれば、事後対応で復旧・復興できない規模の災害は起こさないこと。

 

すなわち、発災までの時間を活用した被害抑止対策で、発災直後の被害量を事後対応で復旧・復興できる規模まで減らすことが不可欠であるが、中央政府の政策決定者を含め、現在、この認識が大きく欠如している。

 

以上のように、そもそも防災は事前から事後の様々な対策を包含したものだが、漢字の印象から事前の抑止対策だけが連想される状況もあるので、私はその誤解を避けるため最近では「総合的災害管理(マネジメント)」と呼んでいる。

 

・「総合的災害管理(マネジメント)」とは?

 

総合的な防災力は以下で説明する3つの事前対策と4つの事後対策を、対象地域の災害特性や地域特性、これまでに実施してきた防災対策の状況などを踏まえた上で、効率的に組み合わせて実施することで向上する。

 

これが総合的災害管理(マネジメント)であるが、3つの事前対策とは、「被害抑止」「被害軽減」「災害予知予測・早期警報」であり、4つの事後対策とは、「被害評価」「緊急災害対応」「復旧」「復興」である。

 

これらの担い手としては、「自助」としての個人と法人、「共助」としてのそのグループやコミュニティ、「公助」としての国・都道府県・市町村の自治体がある。

 

7つの対策に関して少し説明すると、「被害抑止」は構造物の性能の向上(耐震性の向上や堤防高さのアップなど)と危険な地域を避けて住む土地利用政策で、被害を発生させない対策である。

 

次の「被害軽減」は事前の備えによって、被害の及ぶ範囲を狭くしたり波及速度を遅くしたりする対策。

 

具体的には、災害対応組織の設立とか、事前からの復旧・復興計画の作成、防災マニュアルの整備や防災訓練の実施などである。

 

「災害予知予測・早期警報」は災害の到来を予知・予見して早期警報を出すものである。

 

地震の予知は難しいが、台風や津波災害ではこれは非常に効果的である。

 

事後対策の最初は「被害評価」で、発生した被害の種類と量、その分布をなるべく早く正確に評価するもの。

 

「緊急災害対応」は被害評価結果に基づいて、主として人命救助や二次災害の防止を目的に実施される災害対応である。

 

この対策には、被災地の回復は入っていないので、「復旧」や「復興」が必要になる。

 

「復旧」は元の状態(災害前の状態)まで戻すことであるが、その状態で被災したことを考えると不十分なので、改良型の復旧としての復興が求められる。

 

ところで、既に説明したように、発生が危惧されている首都直下地震や南海トラフ沿いの巨大地震による災害は、事後対応での復旧・復興は難しい。

 

重要なことは、災害発生までの時間を有効に活用した被害抑止対策で、発災時の災害規模を自力で復旧・復興できるサイズまで縮小させることであり、それを実現する最も重要な事前対策が既存不適格建物の耐震補強と建て替えである。

 

・ハード対策とソフト対策の組み合わせの重要性

 

既存不適格建物の耐震性の向上が重要ということは、防災の基本はハード対策であるということ。

 

しかし、その実現にはソフト対策が必要である。

 

自然科学に基づいた技術的なアプローチは言うまでもなく重要だが、これだけでは現実の多くの問題は解決できない。

 

社会科学に基づいた、社会制度やシステム的なアプローチを合わせないと解決案の提案は難しい。

 

・「阪神・淡路大震災」の実態

 

兵庫県南地震では、窒息死や圧死など、老朽化した建物の倒壊の下敷きになって多くの人々が亡くなった。

 

地震から2週間以内に神戸市で亡くなった犠牲者に対する兵庫県監察医の調査によれば、その比率は全体の83.3%である。

 

残りの死者16.7%の9割以上を占める15.4%の犠牲者は延焼火事の現場で発見された。

 

この15.4%は3.2%と12.2%に分けられ、前者は完全に焼けきってお骨の状態になってしまい、監察医も直接的な死因が特定できない。

 

つまり生きている間に火事が襲ったのか、亡くなった後に火事が襲ったのかの判断ができない死者である。

 

一方後者の12.2%の犠牲者は、生きている間に火事が襲って亡くなったことが判明している。

 

なぜその時間にそこに存在していたのか、なぜその場に存在していたのかの説明が難しい一部の例外を除き、彼らは被災建物の下敷き状態で逃げ出すことができず焼け死んでいる。

 

すなわち直接的な原因は火事だが、そもそも建物に問題なければ死ななくて済んだ可能性が高い。

 

また、監察医による死亡推定時刻からは、犠牲者の約92%は地震後の14分間以内に亡くなっていることが分かっている。

 

延焼火災の原因も消火能力の不足が真の原因ではない。建物倒壊が出火件数を増大させるとともに、公的消防組織の対応能力を大幅に超える出火件数に対して効果の高い市民による初期消火活動が、建物倒壊で困難になったことが原因である。

 

以上をまとめると、「兵庫県南部地震による死者の多くは、被害の情報が中央政府に迅速に伝わっていれば・・・、総理大臣の対応がもっと良ければ・・・、自衛隊が被災地の知事の要請を待たずに独自の判断で出動できるしシステムになっていれば・・・、消火用水が十分あれば・・・、救えたはずだ。」と言うのは全く間違っている。

 

もしそうなっていれば、なっていない場合に比べてベターだったとは思うが、全壊建物数10.5万棟、半壊14.5万棟、一部損壊39万棟、全焼と一部焼損がそれぞれ約7千数百棟、合わせて6566万棟の被災建物に関して、死者の大半が発災後の15分程度で決まってしまう状況を考えると、救命・救助活動などの事後対応で人命を救うことは非常に難しかったことがわかる。

 

彼らを救うための最重要課題は、発災前の脆弱な建物の建て替えと耐震補強である。

 

・意識改革の重要性

 

地震防災の最終目的が地震被害の最小化であること言うまでもない。

 

しかし多くの関係者が現状の問題点を踏まえた上で、これらが何を原因として未解決なのかを分析し、それを解決する努力を十分してきただろうか。

 

地震防災に関係する科学者や技術者が、そして行政関係者が、自分の枠の中だけで満足し、自然科学者も人文科学者は科学的メカニズムにだけ興味を示し、技術者は技術的な問題だけに取り組み、行政関係者は自分の所轄の議論に終始していないか。

 

自分たちの勝手な思い込みによる目的と社会からの期待の間にギャップはないか。

 

自分の枠内の個別な問題が解決されれば、最終的な目的が達成されると勘違いしていないか。

 

そうでないことをわかっているくせに、それを敢えて伏せて、「自分はまあこれをやっていればいいか、将来的には防災につながるのだから」と言い訳していないか。

 

原因分析の結果、それが政治力の不足であれば政治力を持つ努力、それが経済的な問題であればその対策、制度上の問題であれば正しい制度設計に取り組もうとする意識改革が必要だ。

 

私達はどんな仕事をしてようが、一納税者、一市民としての顔を持っている。

 

その市民としての立場から、自分のような仕事に従事する者に何を期待するか。

 

この視点を常に持ち、それに答える努力と社会に通じる言葉を使った情報発信を続けていくことが重要である。

 

上記のような視点に立って、耐震補強の推進法に関しての解決策として進めている研究を紹介する。

 

・最も重要な地震防災対策とは?

 

繰り返しになるが、現在のわが国のように、地震が多発する危険性の高い状況における防災の最重要課題は、耐震性の不十分な既設の建物(既存不適格建物)の建替えや耐震補強(改修)を推進することである。

 

しかしこれはうまく進展していない。

 

既存不適格建物の耐震改修を促進するためには、適切な「技術」と「制度」の整備が必要だ。

 

既存不適格建物の数と、そこに住む人々の状況を考えると、「技術」に関しては、性能は高いが高価な工法は問題解決の決定打にはならない。

 

低価格ではあるが施工者に応分の利益が上がる価格であること、そして実施した際の「効果」(これが著しく高くなくても)が信頼性の高い情報として、持ち主に理解してもらえる環境の整備が重要だ。

 

「制度」としては、建物の持ち主に耐震改修に対する強いインセンティブを与えるものであり、かつ「技術」の価格や信頼度に関わる不確定性をカバーする機能を持つことが求められる既存不適格建物の数と想定される地震被害を前提にすると、「事前に行政がお金を用意して進める現在の耐震補強支援策」も「行政による事後の手厚い被災者支援策」も財政的に全く成り立たない。

 

さらに副次的にも多くの問題を生む。前者では数を限って実施しても「やりっぱなし」の制度が、悪徳業者が入り込む環境を作っているし、後者は最も重要な事前の耐震補強対策へのインセンティブを削ぐ。

 

いずれもオールジャパンを対象として、長期的な視点からわが国の防災に貢献する制度になっていないし、公的な資金の有効活用の点からも説明責任が果たせるものになっていない。

 

・防災における「自助」「共助(互助)」「公助」

 

既に説明したように、防災の担い手には「自助」「共助」「公助」があるが、その重要性は量と時間の視点から、「自助>共助>公助」の順である。

 

量とは、現在危惧されている南海トラフ沿いの巨大地震や首都直下地震などの被害は、いくら国が頑張ると言ったところで、十分な対応は量的に無理であり、個人として最低限の準備をしておかないと、取り返しのつかない状況になったり、苦しい思いをするのは自分であるということ。

 

時間の視点とは、例えば、都市内の小河川がゲリラ豪雨で一気に水かさが増し、川辺で遊んでいた人たちが流されてしまう様な災害に対して、今後同様な災害が起こらないように事後対策を県や国の立場から実施することはできても、災害の最中に市民の皆様の傍らに必ず県や国の役人が居て避難を誘導したり助けたりすることは無理だということ。

 

災害発生時に自分の命を守れるのは自分だけ、もし助けてくれる人がいれば、すぐ近くにいる隣人、つまり共助の人たちと言うことである。

 

さらに、少子高齢人口減少社会による税収の減少や年金・医療費などの向上による財政難を考えれば、今後「公助」の割合は減少せざるを得ない。

 

その不足分を「自助」と「共助」で補わなくてはいけないが、そのためには個人や法人の「良心」に訴えるだけの防災は限界である。

 

防災対策の推進が、個人や法人に価値を与えるインセンティブを持たせる仕組みが重要であり、このような仕組みがないと、将来的に大幅な無駄やモラルハザードを生むだけでなく、被害軽減に結びつかない。

 

地震防災における「自助」の最重要なアクションは持ち主による事前の「建替え」と「耐震改修」である。

 

これを実現する「制度」として、私は「行政によるインセンティブ制度(公助)」、「耐震改修実施者を対象とした共済制度(共助)」、「新しい地震保険(自助)」を提案している。

 

これら三つの制度(目黒の三点セット)により、将来の地震被害が大幅に軽減されるだけでなく、耐震改修が不要な高い耐震性の建物に住む人と耐震改修を実施した人は、将来の地震で万が一、全壊・全焼などの被害を受けても新築住宅の建設に十分な支援を地震後に受けることができる環境が整う。

 

少子高齢人口減少社会で財政的に厳しくなっていく中では、従来のように30年以上もの期間のローンが終了する前に価値がなくなってしまうような住宅を造り続ける住宅政策は成立しない。

 

目黒の三点セットのような制度によって、日本に「いい場所に、いいものをつくって、よくメンテナンスして、長く使う」という新しい住まい感を定着させることが重要である。

 

◆耐震補強を推進する「目黒の3点セット」とは?

 

・目黒提案の公助システム

 

わが国は自然災害については自力復興を原則としている。しかし実際には、被災者には各種の公的支援がなされ、阪神・淡路大震災の際には、ガレキ処理や仮設住宅の供給などをはじめとして、全壊住宅世帯には一世帯当たり1,300万円、半壊でも1,000万円規模のお金が使われた。

 

さらに自力復興できない世帯には、一世帯当たり1,300万円の復興住宅が提供された。

 

東日本大震災では、阪神・淡路大震災では一世帯当たり3百数十万円であった仮設住宅が7百万円を超え、復興住宅も一世帯当たり1,500万円を超えた。

 

これらの予算はもちろん被災者個人のポケットに入ったわけではなく、彼らを支援するために使われたのだが、その多くは建物被害がなければ費やす必要のないお金であり、その主な原資は公費だ。

 

そこで私は兵庫県南部地震の後に、次のような「行政によるインセンティブ制度」を提案した。

 

事前に持ち主が自前で、耐震診断を受け改修の必要がないと判定された住宅、または改修をして認定を受けた住宅(公費の軽減のために自助努力したもの)が、地震によって被害を受けた場合に、損傷の程度に応じて、行政から優遇支援される制度だ。

 

この制度が実現すると、既存不適格建物が現行基準程度の耐震性を有すると被害率は10分の1から数十分の1程度に低下するので、行政は全壊世帯に1,500万円を優に越える支援をしてもトータルとしての出費は大幅に減る。

 

自治体が事前にお金を用意して、市民に補強をお願いする現在の耐震補強推進制度は、既存不適格建物数を考えると、都道府県単位で地震の前に数千億円規模の予算措置を必要とし、全く現実的でない。

 

しかも建物の数を限って実施したところで「やりっぱなし」の制度であり、「悪徳業者」を生む。さらに高額の補助金を出す自治体では、市民がなるべく高い資金援助を得るために所得が低くなるまで改修を先送りしたり、高い支援金を見込んだ業者による改修が他地域に比べて著しく高額になったりする問題が生じている。

 

一方、私の提案する制度では、行政は事前に巨額の資金を用意する必要がない。

 

また発生する被害を激減させ、行政と市民の両者の視点から地震時の出費を大幅に軽減し、税金の有効活用を実現する。

 

しかも経契約建物の耐震性を継続的にウォッチングする仕組みが誘発され、これが社会ストックとしての住宅の継続的な品質管理に貢献する。

 

さらに「やりっぱなしの悪徳業者」を排除し地元に責任あるビジネスをもたらし、地域の活性化に貢献する。

 

この制度では、以下に述べる「行政によるリバースモーゲージ」も有効だ。

 

経済的な理由から耐震改修できないという世帯を調べてみると、ほとんどのケースでは「今キャッシュがない」だけで、土地付の住宅や生命保険などを持っている。

 

この人たちには土地や生命保険を担保に、金融機関から耐震補強費を借りて、まず補強をしてもらう。しかし毎月の支払いが難しいので、その分を行政が公的資金から貸し出す。

 

払い戻しはその世帯主が亡くなった際に一括して行えば良い。こうすることで市民の命が守られ、行政は地震時の出費を大幅に軽減できる。

 

市民も損害を軽減できるし、仮に被災した場合も行政から手厚いケアを受けることができる。

 

・目黒提案の「共助」システム

 

私の提案する「共助」システムは「耐震改修実施者を対象としたオールジャパンの共済制度」だ。

 

耐震改修済みの建物が被災するのは概ね震度6以上。

 

現在心配されている巨大地震が発生しても、震度6以上の揺れに曝される地域に存在する建物は全国の建物の数~10%程度。

 

この地域内に存在する耐震改修済みの建物が被災する確率は、全国比でせいぜい数百分の一程度になる。

 

つまり数百世帯の積み立てで被災世帯一軒を支援する割合になる。

 

私の試算では、東海・東南海・南海の連動地震(中央防災会議による2003年度想定)を想定しても、耐震改修時(100150万円の支払い時)に4~5万円程度(消費税以下)の積み立てを一回だけすれば、全壊時に1,000万万円、半壊時に300万円の支援を受けることができる。

 

ところが耐震改修を前提にしない共済では、結果的に自助努力した人から集めたお金が努力していない人に流れるだけで、耐震補強へのインセンティブを削ぐ。

 

しかも補強を前提にしていないので被災建物数が大幅に増え、十分な積み立ても難しい。

 

対象地域を特定の県に限っている場合には、なおさら条件は悪くなる。

 

・目黒提案の「自助システム」

 

最後に「自助」の制度として提案する「新しい地震保険」を紹介する。

 

耐震改修済みの住宅が揺れで壊れる可能性は著しく低い。

 

またすでに説明したような目黒提案の「公助・共助」制度で、揺れで被災した場合には新築に十分な2,0003,000万円という支援が行政(公助)と共済(共助)から得られる。問題は震後火災である。

 

そこで私の提案する制度は、揺れによる被害を免責にする地震保険である。すなわち、揺れには耐えて残ったが、その後の火災で被災した場合に役立つ保険だ。

 

兵庫県南部地震は風の影響が少なかったとはいえ、揺れで被災した建物は全半壊で25万棟、一部損壊はさらに39万棟である。

 

全焼・一部焼損火災建物は各七千数百棟である。

 

揺れによる被害と火災による被害は数十倍違う。

 

建物の耐震性が高まると初期出火率が低下するだけでなく、消火活動の条件が向上するので、延焼火災数はさらに減少する。

 

私の試算によれば、揺れによる被災建物を免責にした場合の補償対象建物数は、簡単に百分の一程度になる。

 

年間十万円の保険料が千円になる計算だ。

 

これならば地震保険の割高感もなくなるし、火災保険の3050%という地震保険の補償制限も撤廃できる。

 

・認識を改めるべきこと

 

耐震改修費は木造住宅で平米当たり15千円が目安。

 

100㎡なら150万円。最近ではもっと安い工法が多く提案されている。

 

自家用車の値段と比較して欲しい。

 

これで家族と財産を守ることができる。

 

しかもその効果はずっと続く。

 

自家用車を購入する際、多くの人は強制保険はもちろん、任意保険も買う。

 

交通事故の悲惨さがイメージできるからだ。

 

しかし耐震補強の重要性に関してのイメージは低い。

 

さらに自動車保険は、保険ビジネスが成り立っていることからも、支払った保険料の投資対効果は1以下である。

 

しかし現在の地震活動状況を考えると、耐震改修の投資対効果(耐震改修費とそれによる期待被害軽減額の比)が5倍~10倍という例(地域と物件)はざらだ。

 

よく耐震改修に使う「お金がない」という声を聞くが、その一方で、耐震補強と無関係なリフォームは、現在、戸建て住宅だけでも年間40万棟の規模で、平均400万円程度かけて行われている。

 

このリフォームの機会を活用して耐震補強をすれば、経費は半分から三分の一になる。

 

現在のわが国のように地震活動度の高い地域や時期には、「市民一人一人が事前の努力でトータルとしての被害を減らすしくみを作った上で、努力したにも関わらず被災した場合に手厚いケアをする制度」の整備が重要だ。

 

「やられた人がかわいそうだから、なるべく多くのお金を支援してあげよう」的な制度は財政的に成り立たないし、被害を減らす効果もない。

 

このような制度のために、地震のたびに甚大な被害を受け、また財政的な問題に悩んでいるトルコの事例に学ぶべきだ。

 

耐震基準を守らない建物が多いトルコでは、1999年の地震でも約1万8千人の犠牲者が出た。

 

にもかかわらず耐震補強は全く進んでいない。

 

理由は地震で壊れた持ち家に対して、行政が新しく恒久住宅を建てて供与する制度があるからだ。

 

最近の北アナトリア断層の地震活動度からは、同国最大の都市イスタンブールを襲う地震の発生は時間の問題で、その被害額はGDPの三割(日本に置き換えて150兆円)に達する見込だ。

 

さらに住宅供与制度のため、GDPの45(同様に2025兆円)の予算が必要になる。

 

これらの数値は、制度のあるなしにかかわらず、地震後にトルコ政府がこの規模の被災者支援を行うことが不可能なことを示している。

 

にもかかわらずこの制度のために、市民は全く耐震補強を実施しようとはせず、将来の地震被害を大きくする方向に進んでいる。

 

さすがに問題に気づいて地震保険なども検討されたが、これも建物の耐震性の向上なくしては機能しない。

 

・今、流れを変えておかないと

 

我が国が今トルコと同様の方向に進み出している。

 

何もせずに弱い家に住んでいて、それが地震で壊れると生活再建費が行政から支援される制度「被災者生活再建支援法」が生まれた。

 

これは再考すべきである。

 

私は被災地で困っている人を助ける制度を否定しているのではない。

 

この種の制度を考える場合には、同時に事前に自助努力した人が被災した場合の優遇制度を整備しないと、「自助」のインセンティブがなくなり、被害が増大するとともに莫大な公的資金が無駄となることに警鐘を鳴らしているのだ。

 

被災者生活再建支援として現行のように全壊被災世帯に300万円支援しても、これだけではもちろん足りない。

 

阪神・淡路大震災の事例に従えば、さらに1,000万円を支援する必要がある。

 

我が国のように、近未来に莫大な地震被害が想定される中でこのような制度が成り立つだろうか。

 

私はずっと繰り返し指摘してきたことがある。それは次の通りだ。

 

今後は被災者生活再建支援制度によって支援を受ける人が出てくる。

 

このような状況下で私が最も恐れていることは次の点だ。  

 

起きて欲しくないが、最初の地震が、数十万棟の全壊建物を生じるような地震であれば、自助努力を条件としない現行の支援制度の問題を多くの人々が認識できる。

 

なぜならこれが被害軽減に貢献しないばかりか、莫大な予算を必要とすることがはっきりするからだ。

 

問題は、数百~千世帯程度が支援を受ける地震が起こった場合だ。

 

マスコミは支援を受けた被災者に支援制度の感想を尋ねるだろう。

 

支援を受けた被災者は、「このような制度があって本当に助かりました」と涙ながらに答えるだろう。

 

この人は支援を受けた人だ。その時点では残念だがタックスペーヤーの視点はなく、タックスイーターの視点に立っている。

 

マスコミはさらに質問を続ける。

 

「この制度に関して何か要望や意見はありませんか?」支援を受けた被災者は、「300万円はありがたいが、これだけでは足りません。

 

何とか増額できないものでしょうか」と答える。

 

このような発言を受けて、マスコミや一般社会、そして政治家たちはどう対処するだろうか?

 

現在の地震学的な環境と地震被害のメカニズムを十分理解した上で、タックペーヤーの視点から適切に発言できる人は限られている。

 

残念だが、「もっと増額すべきだ」的発言や世論が出てくることは想像に難くない。

 

被災者が傍らにいて、このような議論になった場合に、この流れを止めるのは容易ではない。

 

 

◆問題、障害或いは試練はどうやって乗り越えたのですか?

 

問題や障害が起きた時は、「自分が成長している時」と考えるようにしている。

 

そして、その苦しい事を乗り越えた人だけが、その出来ごとをエピソードとして語れる人になる。

 

超えられなかった人にとっては、「隠しておきたい事」が「人生の魅力あるエピソード」になるのだ。

 

苦しい時は、「これを将来エピソードとして語られるようにするぞ」と思って対応している。

 

学生にも卒業の時等に「次に会う時はエピソードを増やしておけよ」と声をかけている。

 

それにエピソードがある人の方が魅力的な感じがする。もちろん自慢話になってはいけない。

 

 

◆夢は?

 

地球貢献!

 

自分が今までに学んだ事や経験した事を活用することで、世界中の多くの人々を地震災害から救うことができる可能性がある。

 

これは本当に素晴らしいことだと思う。

 

「これを実現したら、国内外で苦しむ人が減ったり、幸せになるひとが増える。

 

こんなにうれしいことはない」ので、それを何とか実現したい。

 

行政を動かす事も、民衆を動かす事もその一つの活動であるし、社会全体の教育と仕組みつくりも同様である。

 

防災ビジネスの創造と育成!

 

「公助」が減っていく中で、「自助」や「共助」を増強し、継続していくことが重要であるが、これを実現する上では、個人や法人の「良心」に訴えるだけの防災は限界であることは既に指摘した通りである。

 

企業にとってのCSR(企業の社会的責任)でも不十分である。

 

ではどうすればいいのか。私が考えるキーワードは、防災対策の「コストからバリュウへ」の意識改革と「フェーズフリー」である。

 

従来のコストと考える防災対策は「一回やれば終わり、継続性がない、効果は災害が起こらないとわからない」ものになる。

 

しかしバリュウ(価値)を高める防災対策は「災害の有無にかかわらず、平時から組織や地域に価値やブランド力をもたらし、これが継続性される」ものになる。

 

防災の視点からの組織や地域の格付けとその結果に基づく金融モデルやリスクコントロールに貢献する災害保険などがその典型である。

 

私がアドバイザーとしてかかわっている事例をひとつ紹介する。

 

日本政策投資銀行(DBJ)によるBCM(事業継続管理)格付けである。

 

DBJはクライアント会社のBCM力(事業継続管理能力≒防災力)の程度をエビデンスベースで詳細に評価する。様々なレベルの人々にもインタビューを実施し、最終的に対象企業のBCM能力を評価する。

 

この評価結果が高い企業はDBJからすれば、信頼性の高いビジネスパートナーである。

 

ゆえに資金融資の際の金利を低くすることができる。

 

この状況は企業から見ればバリュウであり、対策を継続するインセンティブにもなる。

 

さらに災害の有無にかかわらず平時から企業にバリューをもたらすものになり、企業のブランドにもなる。

 

現在は、同様の仕組みを自治体やマンション、貸しビルなどへ適用することを検討している。

 

その際には、自助と共助に相当する対策の評価値のウェイトを高くし、これらの推進にインセンティブが働くように設計している。

 

「フェーズフリー」は平時と災害時、防災の3つの事前対策と4つの事後対策など、様々なフェーズで適用できたり利用可能な商品、システム、会社や組織、人やその生き方、などを表現する新しい言葉である。

 

社会の様々な構成要素を「フェーズフリー」にしていくことで付加価値をもたらすとともに、結果的に社会全体を「フェーズフリー」に、すなわち災害レジリエンスの高い社会に変革しようとする活動だ。

 

 

◆最後に若い読者の皆様に一言

 

国内にとどまらず、広く世界を対象に仕事をして欲しい。

 

日本と諸外国の両方を見ることで、初めて日本の特殊性や一般性が理解できる。

 

この理解のあるなしが、国内の仕事をする場合にも大きな差となって現れる。

 

次のアドバイスも世界に共通することだが、社会が判断するあなたの実力が、あなた個人のみの実力ではなくて、あなたの持っているコミュニティ全体の実力の総和になることを理解して欲しい。

 

学生時代までは、個人として取得した知識や経験のみ(他の人に意見を言いたりしてはいけない)を用いて、与えられた問題に比較的短い時間で回答することが求められる。

 

問われる問題も、過去の類似問題の内挿、外挿的な方法で解決できる問題が多い。

 

このような問題を解く能力の高い人が偏差値の高い学校に合格する。

 

しかし社会に出ると状況は大きく変わる。問題が出題された場合に、提出期限までの時間はどのように使ってもいい。

 

短時間で回答しても、じっくり考えて時間を掛けて回答してもいい。

 

誰かに相談してもいいので、様々な問題に対して、的確なヒントや正しい解を提供してくれる人を国内外に多く知っている人は言うまでもなく有利である。

 

しかしそのような相談相手は優秀な人なので、そもそも彼らの組織の中で忙しい人たちである。

 

その彼らが、あなたからの相談に乗ってくれるかどうかは、それまでの人間関係で決まる。

 

つまり、信頼のある人間関係を保つとともに、相手からも頼りにされる人間でなくてはいけないということ。

 

また年齢を重ねるごとに求められる能力が変わっていくことも理解しておく必要がある。

 

つまり、与えられた問題に回答する能力が求められるのは若い時代だけ、すぐに問題を見つける能力と、その新しい問題に対する解決策を提示していく能力が求められるようになる。

 

高学歴でも社会であまりうまくいっていない人は、上記のような点に関する認識の乏しい人である場合が多いように感じる。

 

社会に出ても、学生時代と同じように個人だけの能力で負けないと勝手に思い込み、いいコミュニティをつくってこなかった人である。

 

一方、もし自分の個人としての能力が不十分であると思えば、いいコミュニティを持つ努力と、問題意識を持って社会を洞察する習慣を身につけるべきである。

 

少しずつではあるが、状況は確実に好転していく。

 

ぜひ頑張っていただきたい。

 

目黒公郎研究室

http://risk-mg.iis.u-tokyo.ac.jp/top/top.html

 

【専攻分野】

都市震災軽減工学 工/社会基盤学専攻、都市防災戦略

 

【目黒研究室の取り組み】

◇ハード的な問題を対象とした研究課題

1. シンプルで高精度な構造物破壊解析法の開発とシミュレーション

2.構造物の常時ヘルスモニタリングと災害時の早期被害評価システム

3.新しいメカニズムによる構造物の振動制御システムの研究

4.地震断層が地表構造物と埋設管や構造物に与える影響に関する研究

5.組積造構造物の耐震性を向上させる技術的アプローチに関する研究

6.木造建物の耐震性評価と地震時挙動に関する研究

7.地震時の家具の挙動分析と安全対策に関する研究

8.土石流のシミュレーションの研究

9.液状化現象の数値解析に関する研究

10.インド洋沿岸地域を対象とした新しい津波災害軽減システムに関する研究

11.激震→巨大津波地域の災害弱者を守る新しい津波避難システムの研究, etc.

 

 

◇ソフト的な問題を対象とした研究課題

1.組積造構造物の耐震性を向上させる社会制度的アプローチに関する研究

2.既存不適格建物の耐震補強推進制度に関する研究

3.電力需要モニタリングによる平時の地域評価と災害時の被害、復旧・復興評価に関する研究

4.避難行動モデルの開発と災害時の避難対策に関する研究

5.利用者の視点からの空間安全性評価と避難シミュレーションに関する研究

6.次世代型ハザードマップの開発とリスクコミュニケーションに関する研究

7.災害情報システムと次世代型防災マニュアルに関する研究

8.効果的な地域防災計画の立案と運用を支援するシステムの研究

9.災害イマジネーションと防災教育に関する研究

10.緊急地震速報の有効利用に関する研究 

11.災害時の病院の防災力向上に関する研究

12.地震リスクを加味した不動産評価・土地利用に関する研究

13.我が国の社会に適したBCPBCMに関する研究

14.人口減少時代のわが国における活断層法の研究

15.現象先取り減災誘導型災害報道(効果的な防災報道)のあり方の研究

16.人口減少時代の適切な防災投資のあり方に関する研究

17.防災制度設計に関する研究, etc.

 

◇その他の興味深い研究

1.プローブカー情報を利用した災害時の道路情報共有に関する研究

2.大正関東地震による旧東京市の延焼火災と建物被害の関係に関する分析

3.マルチハザードリスクから見た地域別潜在的災害リスク特性の評価

4.ユニバーサル地震災害環境シミュレータ構想

5.自然災害後の被災地周辺観光地への観光手控え行動に関する研究

6.大規模水害時の江東デルタ地帯における危険性分析と避難方法の検討

7.応急仮設住宅供給業務へのプロジェクトマネジメント手法適用の検討~石巻市の事例より~

8.効果的な災害対応を実現する災害報道を目指して

9.東日本大震災における緊急支援物資の数量推移に関する研究

10.大規模災害時に有効な新しい仮設住宅供給システム、

11.関連学会の研究動向分析、

12.災害時の大量死体の埋葬法に関する研究

13.津波被災地の土地の一括買い上げによる合理的復旧復興戦略

14.子供の防犯と地域の安全安心を向上する対策に関する研究

15.危機管理・防災情報ステーションの開発

16. 防災ビジネスの創造と育成に関する研究,etc.

 

【受賞】

土木学会  論文奨励賞(1992

日刊工業新聞  技術・科学文化図書大賞(1993

土木学会  出版文化賞(1994

地域安全学会  論文賞(2002

地盤工学会  「土と基礎」年間優秀賞(2006

土木学会  国際活動奨励賞(2007

東京大学総長賞  業務改善(2007

文部科学大臣表彰  科学技術賞(2010)、他

 

【委員会活動】

・公益社団法人 日本地震工学会(JAEE) 会長(任期:2015522日~20175月)

・日本学術会議  連携会員(201212月~)

・日本自然災害学会理事(1998年〜)  兼「学会賞審査委員会」委員(20087月~)

・同学会  東日本大震災特別委員会  委員 (2011年~)

・地域安全学会理事 (2001年〜) 、副会長(2015年~)

・日本予防医学リスクマネジメント学会  副理事長 (2011年〜)

・国際予防医学リスクマネジメント学会  理事 (2011年〜)

・日本活断層学会理事 (2012年〜2013)

・土木学会  地震工学委員会  幹事 (20084月~20153)

・同学会日本土木史編集特別委員会委員、「地震工学」部門委員長(20084月~20153)

・国際地震工学会 (IAEE) 世界地震安全推進機構 (WSSI)理事 (1995年〜)

・内閣府  社会還元加速プロジェクト・タスクフォース  専門委員 (2008年〜2012)

・世界銀行  防災グローバル・ファシリティー有識者委員会  委員 (2007年〜2010)

・財務省  地震保険制度に関するプロジェクトチーム  委員 (2011年〜)

・総務省  G空間×ICT推進会議  委員 (2013年)

・国土交通省  大規模地震・津波対策アドバイザリー会議  委員 (20137 月~)

・国土交通省・農林水産省水門・陸閘等の効果的な管理運用検討委員会  委員長 (201212月~ 20133)

他、多数




コメント: 1
  • #1

    船木 浮 (日曜日, 10 7月 2022 19:20)

    還暦だよ(笑) 浪江の安藤ハザマjvで除染と解体ヤってんだがや、あの筋交いっちゃスゲーなっ! 昔の大工は大したもんだ!。日本の筋交いに、ニシャならなれっぺ! 肥りすぎだで(笑)


 

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