武道を極め!予防医療を世界に発進する!セルフメディケーション王


株式会社シー・エム・シー

代表取締役

近藤昌之氏

 

2013.4.22 1030


近藤昌之

 

◆業種

 

整骨院経営・医療業

 

 

◆子供のころになりたかったものは?

 

医者

 

生まれたときから体が弱く、喘息と肋膜炎に罹って殆ど寝たきりの生活をしていた。

 

今は違うかもしれないが、昔はとにかく安静にしていないといけない病気で、医者も家族も「寝てなさい。寝てなさい。」と言う。

 

毎日天井の節目を数えることが、仕事のような生活だった。

 

小学校2年生の終わり頃になると、上の兄が「大東流合気道柔術」を習い始めた。

 

楽しかったらしく、家に帰ってからも二番目の兄と練習していた。

 

その姿を見て、床の中にいた私も「教えて!教えて!」と一緒に参加した。

 

それをきっかけに、武道を始めるようになった。

 

体を動かすことでたちまち元気になった。

 

それからは武道付けの人生。

 

よく野球少年というが、私は武道少年で、武道をするために学校に通っているようなものだった。

 

兄が、大学に進学すると、その大学で大東流合気道柔術の部を創った。

 

その部に入りたくて、私も同じ大学に進んだ。

 

当時、武道ができれば大学も学部もどこでも良かった。

 

 

◆毎日欠かさずしていることはありますか?

 

朝晩、神棚・仏壇に向かう。

 

朝起きたときと、帰宅したとき。

 

神様やご先祖様、お世話になった師匠にごあいさつする。

 

 

◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

 

三人の師匠。

 

1、 武田時宗先生

 

大東流合気道柔術を世に広めた、武田惣角先生のご子息。

 

大東流の宗家。

 

時宗先生は、北海道の網走に住んでいらしたので、高校生ぐらいから年に3、4回一週間単位で北海道まで習いに行った。

 

朝、昼、夜と時宗先生より午前、午後の空いている時間は当時の高弟の先輩から稽古していただいた。

 

正に一日中だ。

 

先生も年に3、4回は東京に教えに来て下さった。

 

これも一日中だ。

 

行ったり来たりの武道修行を行っていた。

 

もちろん家では武道漬けの毎日を送った。

 

道の歩き方、人との接し方、日常の細部にわたって指導を受けた。

 

武道家として生き方の基本を叩き込まれた感がする。

 

教わることが苦しくもあったが楽しかったし喜びでもあった。

 

東京在京時の時宗宗家のカバン持ちとして、有名な武道家をたくさん訪問しお話を伺えたり、教えをいただいたことは、今考えると夢のようなことだった。

 

私の判断基準は、全て武道から生まれたといっても過言ではない。

 

 

2、 笹森順造先生

 

小野派一刀流(おのはいっとうりゅう)の宗家

 

時宗先生にある日突然連れて行かれた先が笹森先生の道場だった。

 

学生服を着ていたのを覚えている。

 

大東流を学ぶものは一刀流も学ばなければならないと時宗宗家に命じられた。

 

笹森先生は、国務大臣も務めた政治家であり、教育者でもあり、また牧師でもあった。

 

18歳で一刀流に入門した私は、84歳になる先生の弟子の中では一番年下だったこともあり、身の回りのお世話や、お客様にお茶を出したり、リンゴを剥いたりすることも多かった。

 

お客様とは時の要人ばかり、大臣や最高裁の裁判官、お役人等で、皆、笹森先生のお弟子さんだった。

 

余談だが、笹森先生は青森県出身だったので、常にリンゴが道場にあったので、お客様が来ると必ずリンゴをお出ししていた。

 

そのお陰で今でも、早く上手に剥ける。

 

先生は、いつもやさしく、10年間お側にいたが一度も怒ったところを見たことがない。

 

ある日、誤って先生の頭を木刀で打ち抜いてしまったことがあった。

 

血がダラダラと流れ、私も周囲の人間もあわてたが、先生は一切取り乱すことも怒ることもしなかった。

 

出前のそば屋にも、国の要人にも、弟子にも変わらぬ態度で接する。

 

私は正に神様だと思った。

 

 

3、 大森曹玄老師

 

剣を使うもの禅にも精通しなければならないと当然のように思っていた。

 

剣と禅の名人と誉の高い大森曹玄老師に入門した。臨済宗の禅僧で花園大学の学長さんをされた。

 

その道ではとても有名な方で、多くの武道家や国士が集まっていた。

 

禅は臨済滴々の本流だ。

 

剣は直心影流の法定を学んだ。

 

書は筆禅道を教えていただい。

 

禅も剣も書も同じ気持ちで使った。全身全霊で行った。座禅は剣を振るうように。

 

書は剣を筆に置き換えるように行った。

 

老師は戦前には日本の国士として働き、大東亜戦争には反対された。

 

日本の国のために生きた生粋の国士だが、終戦で生きる術を失った。

 

日本の未来を構築するにあたり真人を育てようと禅僧になった人だ。

 

身が縮むほど叱られると怖かった。褒められると天に登るほど嬉しかった。

 

それまで、ただ強くなりたい、超人になりたいと一生懸命やってきた私だったが、3人の師匠方の生き様をみていて、武道は何のためにするのだろうか?

 

武道の活かし方を考えるようになった。

 

今でもこの3人の師匠に一歩でも近づきたいと思っている。

 

 

◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

 

「花は紅、柳は緑」

 

「あたりまえのことがあたりまえに」この一瞬にできればいいと思う。

 

当たり前を体現したい。

 

8歳から武道を始めて、武道家を目指し一生懸命励んできた。

 

武道しか知らない、言わば特殊な世界に身を置いてきたようなものだ。

 

「武道を何のために使うのか?」ということが、20歳頃から自分の中に命題として残り始めた。

 

寝ない稽古、動き続ける稽古、山修行、限界に挑戦したこともしばしばある。

 

たとえ、目前の勝負に勝っても10回、20回と勝ち続けることはできない。

 

生きるか死ぬかの真剣勝負だった場合は、たった1回負けただけで命を落としてしまう。

 

100連勝、1000連勝とずっと勝ち続けなければならない。

 

武道は殺す術だ。

 

武士の時代に、武家社会を維持するための倫理基準である武士道とは違う。

 

生き続けるためには法則がある。

 

負けないことだ。究極戦わないことだ。

 

負ける戦いはしない。勝つ戦いだけをするということだ。

 

これが兵法(ひょうほう)というものだ。

 

しかし、逃げられないことも世の中にはある。

 

いつ何時「いざ」ということが起きるかもしれない。

 

その「いざ」の一瞬に全力を出せるために鍛錬する。

 

これが武道であり、経営だと思っている。

 

 

◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

 

1、 小学校2年生の終わり、大東流合気道柔術に出会ったとき。

 

病気からの脱却。

 

寝たきりからの脱却だ。

 

それまでは、野山を駆け回ることも、虫取りもしたこともなく、外に出るとしても庭のお花に水をあげる程度だった。

 

2、 25歳、柔道整復師になろうと思ったとき

 

武道をこのまま続けていても、食べてはいけないと気付いた。

 

「武道を何のために使うのか?」という命題を持ちつつ、何か人様のお役に立つことをしたいと思った。

 

幼いころ医者になりたいと思ったこともあり、健康に関係した職業で、武道にも関係している、柔道整復師になろうと思った。

 

そこで、医療専門学校に入学。

 

専門学校生のインターン時代に学ぶことの楽しさを知った。

 

昔の制度は今と違い、専門学校に通いながらインターンをする。

 

私にとって、正直初めての勉強だった。

 

大学までは、武道をすることを目的としていたので、殆ど勉強したことがなかったし楽しいと思ったことはなかった。

 

ところが、柔道整復師の勉強は、生理・解剖・病理といったように医学的な勉強が多く、実用的でとても楽しかった。

 

この2つの転機がなかったら、今の私はない。

 

 

◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

 

問題、障害は毎日ある。

 

問題障害を問題障害と捉えないようにしている。普通のこと当たり前のことと捉えるようにしている。

 

30歳で独立開業し、お客様も増えてきたので人を雇い会社にした。

 

人といっても整骨院の場合、雇うのは先生。

 

すると入る先生、入る先生皆直ぐ辞めてしまう。

 

「あー俺はなんてダメなんだろう。」と悩んだ。

 

どうしたら上手くいくか考えた。

 

武道しかしていないせいか人をすぐ殺してしまう。(ダメにする意味)

 

私は二十の頃から5つの道場で武道を教えていた。

 

だから、自分は優れた指導者だと思っていた。

 

自信はあったのに結果は得られなかった。

 

武道は教えてもらうのではなく、皆見て覚えるものだ。

 

厳しく一生懸命、新しく入った先生に指導をした。

 

相手の立場も考えられず、やってしまっていた。

 

仕事となれば、休憩や休日も必要だということがわかった。

 

見て覚えるということも、組織になると中々成り立たない。

 

そこで理念と教育システムを作り、実践してから良くなった。

 

問題は起らないようにする方が良いが、そうはいかないこともある。

 

自分の手の届く範囲で仕事をすることが、一番良いのではないかと思う。

 

身の丈をよく考えて行動に移すようにしている。

 

 

◆夢は?

 

日本の国全員の人を治療したい!

 

人口1億2,000万人として、今グループ全体で一日4,100人の治療をしている。

 

一年間で130万人になるが、日本の人口には届かない。

 

グループをもっと拡大して、累計で日本の人口1億2,000万人に達したいと考えている。

 

だから会社の規模を10倍にはしたい。

 

体を建物に例えると土台を作る柱は骨格である骨に当たる。建物の外壁は筋肉や皮膚だ。

 

その中に血管や神経や内蔵が入っている。

 

土台である体が歪んだり曲がってしまうと、血管や神経や内蔵にひずみが生じ、詰まりや圧迫などの症状が起きる。

 

これが病気の元になることが多い。

 

病気予防の第一段階として、普段から体が歪まないよう整骨や東洋医学でケアしていれば、こうした症状が起きにくくなる。

 

副作用のない究極の病気予防だ。

 

そこで「整骨院をファーストステージへ!」と銘打って、整骨院を普及させたいと考えた。

 

日本は、病気予防には保険がまだ利かない。

 

これを普及させることが私の使命だ。

 

病気にならない体にすることが究極の医療だ。

 

健康な人が増え医療費の削減になる。

 

今、厚生労働省などに働きかけているところだ。

 

医療を通じて日本創生をしたいと思っている。

 

整体作用は副作用なく、ある程度覚えれば自分でも出来る。

 

それに呼吸法も伴う。

 

呼吸法は、自分でできる唯一の内臓トレーニングだ。

 

また、日本食は世界の宝だ。

 

おいしく食べて健康を作る食育だ。

 

医療・健康知識があれば多くの病気やケガを予防できる。

 

知育だ。

 

スポーツは規格化された運動の繰り返しになることが多く、体を傷めることも多い。

 

体育になっていない。

 

本当の体育を学校の教育に入れる必要がある。

 

食育、知育、体育の3本柱を「日本健康モデル」として、日本に普及させる。

 

それを世界の市場に普及させる!

 

究極のセルフメディケーションを作り世界に発信させていきたい。

 

それが私の仕事だ。

 

 

株式会社シー・エム・シー

http://www.cmc-g.jp/

 

近藤昌之著

からだの「ゆがみ」を治して健康になろう!」

 

大東流合気道柔術/近藤昌之

http://www.daitohryu.com/index.html