結草居
代表2011/4/25 13:00
◆業種
茶道コンサルタント(御道具商)
◆子供のころになりたかったものは?
船乗り
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
西郷隆盛、大久保利通等、(特に明治維新の頃の人物)直筆の書(掛け軸)をゆっくり眺める。
ゆっくり眺めていると、その人の気分が伝わってくる。
人の歴史は、人の心が重なって出来るもの。
フゥーッっと良風が吹いて、その人物が心の中に入ってくるようだ。
江戸末期、文武両道を学ぶ武士は、藩校や、望む学問、蘭学等を教える師を求め学んだ。
そういう教養が蓄積され、漢文字を使って自分の気分を書に表した。
ただ、若くして亡くなった吉田松陰のものは少ない
また、西郷隆盛などは贋作も多く、おそらく90%ぐらいは偽物だろう。
ある展示会に招かれて行った時など、全てが贋作だったことがある。
私も贋作を購入してしまったことがあるが、毎日眺めていると偽物だとわかる。
風も吹かないし、心が伝わって来ないのだ。
江戸の末期、禅は武家社会に広く受け入れらており、西郷さんや大久保公も若い時に座禅をしている。
インドから、達磨大師が中国(梁の時代)に来て、その後、日本に伝わった。
禅宗の教えは、「只ひたすら座れ」で、自力本願で自身を見つめる修行である。それによって日本人に背骨が通った。
その力強い精神を持つ武士たちが、明治維新の原動力となった。
そういったことを書物からも学ぶこともあるが、一次資料の書を見て、時代や人物を感じている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
田山 方南(ほうなん)先生
元国史編修官兼国宝鑑査官、文化財調査官書跡主査
特に、臨済宗の御坊さんが書いた墨跡の研究(筆で紙や絹に書いた筆跡のこと)をした。
方南先生は、文人墨客(ぶんじんぼっかく・江戸文化にいた、文や書をもって風雅にたずさわる教養人)であり、文化をリードする最後の人々ではないかと思う。
中学1年生の時、父を亡くし、母が女手一人で私たち兄妹を育ててくれた。
そのため母は当然忙しく、父もいない環境の中、中学、高校と「人生の師」をひたすら模索していた。
方南先生は、10年間探し続けてやっと出会った師匠だ。
先生を師と仰ぎ、掛け軸や茶器の目利きを教わりながら、自らも多くの書物や作品から歴史を学び、書を研究した。
また、先生と一緒に雅な遊びがしたくて、わざわざ舟を注文して作った。
先生を招待し、月を見ながら歌を詠み楽しんだ。
茶の湯や歌会などは、心と身体が喜ぶ遊びだ。
また先生は、ご自身も筆まめで毎朝巻紙に墨で手紙を十数通書いていた。
私も見習って、手紙は巻紙に墨を磨って筆で書いている。
そんな方南先生から教わったことは、「一時資料に触れろ!」。
昔の人の、書など資料に触れることで、日本の文化を悟ることが出来るということだ。
陶器の研究のために、韓国には20回行った。
韓国の陶磁器は庶民派で、千利休が好んで使ったとされる。
やはり、その陶器の生まれ育った風土に触れることが大切。
そんなことから京都には、9年程住んでいたこともある。
目利きが出来るようになると、高価な茶器や掛け軸を購入したい財閥の流れを汲む方々からの相談があり、仲介をしているうちに御道具商となった。
昔は、ご贔屓が数人いれば十分に食べて行かれた。
また、御道具商は茶器を販売することもあるが、御茶会の全体をプロモートすることが仕事だ。
あまり茶の湯をご存知でない方が出席する場合は、最後の席に座り色々とサポートする「おつめ」という役で御茶会に出席することもある。
御茶会は通常4時間を要し、御懐石の料理から始まって最後に茶の湯を頂く。
お食事会をグレードアップさせたようなもので、喫茶喫飯(きっさきっぱん)を大切にする。
喫茶喫飯(きっさきっぱん)とは、日常茶飯事、日常の中に本質の教えがあるということだ。
特別な修行の中に教えがあるのではなく、日常の食事で礼儀作法をきちんとすることに存在する。
御茶会のやり方は色々あり、深夜2時から朝6時は、暁の茶事、早朝から日が上がるまでの朝茶事、正午の茶事など七つほどある。
そして空間をとても大切する、別の次元をつくるような感じだ。
現在の御道具商は、戦前と質が違ってきた。文化の担い手の旦那が居なくなったこと。文化人と言われる人が軽くなったということだ。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
一言、二言に収まらない。
お茶を通して、日本の文化や歴史に対する理解そのものが、広範囲に影響を受けた。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
22歳の頃、田山方南先生に出会ったこと。
私の通った高校は友人の大半が大学に進学した。
だが、人生を模索中の私は、卒業後の進路を決めかねていたため、流れで大学受験もしたが進学も就職せずに卒業をした。
「いっそブラジルにでも行ってしまおうか。」
そう考え、ブラジルに行ける道を探してみると、土木技術や測量士を育成して、日本の技術力をブラジルの都市開発に提供する国策があった。
建設省管轄の産業開発青年隊に入隊して、技術を身につけ卒業すると、その道が開けるという。
早速、産業開発青年隊に入隊した。
入隊後、全国から30人だけが入隊出きる沼津市の中央隊に選ばれた。
中央部隊で学べば、半年でブラジルに派遣されるということで朝8時から夜9時まで必死に学んだ。
ところが、卒業間近になって国策が変わり、ブラジルへ技術派遣するより、日本の開発が先ということになった。
東名高速道路、新幹線の建設などが始まり、国内に力を入れることになったからだ。
土木技術を身につけた精鋭部隊の一員として、大阪の大手、土木建設の会社に引き抜かれ就職したが、なんだか合わない。
もっと自由に生きたい!と思って、1年半後の昭和38年に退職した。
群馬に帰って暫くブラブラしていた。
そんな時、知人の伝手で埼玉県川越市にある病院の院長夫人が茶道を教えていることを知った。
何かに心を惹かれ習いに行くことにした。
そこに、院長の友人である田山方南先生が文部省を退官してちょこちょこ遊び来ていたのだ。
話をするようになり、話を聞けば聞くほど師と仰ぐようになった。
まさに運命の出会いだ。
この出会いがなかったら今の人生はない。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
バブルなどで少なからず影響を受けた。
茶器などが、仕入れた価格より安くなってしまったが、戦後の食糧難に比べればどうってことはない。
大欲を持たず、一連の流れの中で柔軟に対応して来た。
◆夢は?
30年から40年かけて集めたものを活かして、後世に伝えて行きたい。
特に明治維新前後の掛け軸は150幅ほどある。
歴史的に貴重な書物も多く所有しているため、本物を見せて人物や文化を教えたい。
また、20年前から移民族の音楽や文化に触れ感動し、関わるようになった。
特に、ウイグル、チベット、モンゴルなどの留学生の面倒を見てきた。
これからも支援して行きたい。
夢がなければ人間は生きられない。
人生に張りがなくなる。
これからも夢を持ち続けたいと思っている。
コメントをお書きください