「ペンの無限力」で日本を耀かす!天孫降臨王



明治天皇の玄孫

 

一般財団法人竹田研究財団

理事長

 

慶應義塾大学大学院

講師

 

竹田恒泰様 

2010/12/22


竹田恒泰

◆業種

 

作家/慶應義塾大学大学院講師

 

 

◆子供のころになりたかったものは?  

1、幼稚園の頃はペンキ屋さん
楽しそうだから

2、小学生の頃はパイロット

3、中学生の頃は経営者


◆毎日欠かさずしていることはありますか?

感謝をする時間をもつ目に見えない大きな力に感謝する。

時には神社や神棚に向かって、静かに心を鎮めて行う。


◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

大学時代に出会った二人の恩師と両親

●小林 節先生

私を、慶應義塾大学大学院講師に推薦して下さった。
憲法改正を推進する第一人者。

●藤田 祐幸先生

学問の面白さを教えて頂いた。

学問によって社会を変え、世の中を良くして行く事を実践。

森を守る活動の最先端にいらっしゃる物理学者。

私は、好奇心が旺盛で、何処でも一人で行ってしまうような子供だった。

中学生の頃は友達と二人だけで中国に行き、大学生の頃はバックパッカーで色々な国を見て廻った。

何度も拉致され、命の危険にさらされているうち、拳銃を突きつけられても恐くなくなった。

彼らの欲しいものは命ではないと分かったからだ。

又、高校生の頃から、多くの企業家の方々とお話をする機会に恵まれた。

高校生の自由な発想が好まれたのでしょう、企業のコンサルティングをするようになっていた。

そのためいつの日からか、このまま大学に進学せずにビジネスを続けたいと思うようになった。

「大学に行っても意味が無い。」と言うと、父に「それは大学を出てから言いなさい。」と切り返された。

「確かにそうだ。」と半ば仕方なく大学に進学したが、二人の恩師との出会いにより、学問の面白さに気付がついた。

父は、乗馬のオリンピック選手になるほど一つのことを集中してやり遂げるタイプだ。

そんな父だが、色々な事に興味を持つ私に「君は集中しないな。」と言い、「だって楽しんだもん。」と答える私を容認してくれた。

又、母からは「やさしさや人への思いやり、命の尊さ」を教えられた。

父も母も、私の自由を許してくれていたが、今となっては親の言うことは、やはり正しいと思う。


◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

「ペンは剣よりも強し」

福沢諭吉先生の言葉

小学生から慶應なので、何時からとはなく聞いていた言葉だが、自分の出版した本が世論を動かした時、「なるほどな。」と実感した。

どんなデモをしたとしても、相手を殴っても変えられないことを、一冊の本が変えた事実を体験した。

ペンは世論を動かす!ペンの力は無限なのだ。


◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

25歳の頃、個人的な「儲け」に興味がなくなってしまったとき。

大学生の頃から、アパレル関係の会社を経営していた。

大学のサークルは、Tシャツやパーカーなどをお揃いで作ることが多い。

それを見て、「コレ作ろう!」と思い立ち、学生4、5人にデザインを頼み「どれがいいですか?」と発注元に選ばせた。

プロのデザイナーを使って、そんなことをしたら大変高額になるところだが、学生だから出来た。

Tシャツを作るのに、4、5種類の中からデザインを選べる業者なんて他にはなかったので口コミで仕事は増えた。

あるアーティストのコンサートTシャツを手がけたこともある。

投資額は1万円程度、領収書や印鑑を作るのに使っただけだ。

後は外注でまかなえる。

卒業してからも経営を続け、いくつも会社を増やした。

ところが、25歳の頃、会社経営に興味がなくなってしまった。

経営者が儲けに興味をなくしては、会社は成り立たない。

会社はやりたい人に全部譲り、自分は引退することにした。

作家になろう!

作家といえば鎌倉だ。

形から入るタイプなので、それまで家賃40万円程の都内で暮していたが、鎌倉のはずれに家賃も4〜5分の1の一軒家に引っ越した。

特に作家として活動するために蓄えを持っていた訳ではないので、美術品を売って家賃に充て、食事は魚を釣って食べた。

米やパスタも、10Kg単位で購入すると安いところを見つけた。

唯一の投資は万年筆。

車を売ってモンブランの万年筆を買った。

天皇についての本を書くようになったのは、中学、高校の頃からの流れだったように思う。

歴史を学ぶと自分の先祖が出てくる。

特に、天皇家同士が争う「壬申の乱」や「南北朝時代」などはドキドキした。

自分は一体どっちの子孫なのだろう。

とても新鮮で楽しかったことが思い出される。

又、本屋に行くと、明治天皇や昭和天皇、大正天皇についても本はあるが孝明天皇の本はない。

伝統的な皇室の最後の姿がそこにあるのに、なぜかそれについて書かれた本がない。

これはミステリアスで面白いと思い、孝明天皇の研究に没頭し資料を集めた。

「孝明天皇の第一人者になってやる!」という決意だけで、「自分がどこまで出来るのかやってみよう。」そう思って鎌倉に篭ったのだ。

2年もたった頃、書き溜めた原稿を持って自ら出版社を回った。

まずは大手から、30社以上も持ち込んだが、どの出版社の対応も悲惨なものだった。

「明治天皇の玄孫だか何だかしらないが…、そんなので本が売れる程、世の中甘くない!」

「こんなの全然ダメだね。」等、言いたい放題言われた。

1年間ぐらい原稿を持って回った頃、ある出会いがあった。

小学館の今井さんという編集者の方が、「この本は意義がある。」と言ってくれた。

やっと日の目を見ることが出来そうだ。

しかし、無名だからという理由で中々出版には至らなかった。

そんな時、皇室典範の問題が浮上した。

「皇室典範について一冊書いて下さい。」と今井さんは言う。

しかし、この問題を題材にしては一族から許しが出ないだろう。

一度断ると、「せっかく本を出せる方法を思いついたのに」と今井さんは残念そうに言った。

その後も、今井さんからは何度も依頼を受けた。

「ここで本を書いたからと言っても、皇室典範の問題に影響を与えるどころか、女系天皇賛成派がムキになるのではないか?」と言うと、今井さんは「“男系天皇の存続の意義をとく本が出版された、という記録を残すことに価値がある。」という。

確かにそうだ。

しかし、一族が反対したらまず出版は無理だろう。

無理だと思いながら、ふと「まてよ。これは日本の存続、根幹に関わる大問題!」と思った。

もし天が動けと言うのであれば、出版の道が開けるのではないか!?

「本当に天が必要としているかどうか」を試すつもりで書き上げた。

そんな頃、父から「旧宮家の頭首が集まった会議で、皇室典範ついては何もコメントをしないようにしよう。と決まったので、君もこの件については一切触れないように。」と電話が入った。

そう言われて黙っている訳にもいかず「ところでこんな本を書いたのだけれど」と父に見せると、「一族の賛成を得ることは無理だろう。」と言われた。

ただ…、最後に一言「もっと強いものを使え」と付け加えてくれた。

すぐさま、ある宮様へご相談に上がった。

すると「これは良き事」とおっしゃって下さった。

そこで、有力者の瀬島龍三さんに会いに行った。

瀬島さんは、関東軍の参謀でシベリアに抑留され、将校でありながら強制労働させられた経験を持つ。

戦争が終わってからは、自衛隊から再三誘いを受けたが伊藤忠商事に入社、現在のように大きくし会長まで勤めた人物だ。

その瀬島さんの太鼓判があれば何も恐くない。

ところが帰ってきた返事は「良いと思うがあまりにも影響が大きいので、出版は止めたほうが良い。」だった。

お伺いをたてずに出版するより、反って難しいことになってしまった。

伊勢の神宮に外宮、内宮と参り、夜明けから神武天皇の御陵の前で、玉砂利に直に平伏し「道を開きたまえ」と額づいて祈った。

すると、「ゴゴーッ」と地響きが鳴り、数千羽の烏が飛び立って行った。

神武天皇を道案内したのは八咫烏、ありえないこの光景に、これは神勅に違いないと思った。

帰って早速、瀬島さんに「これは神勅だから出させて下さい。」と再度手紙を書いた。

手紙は速達で戻り「あなたの決意を全面的に応援する。出版せよ。」と書いてあった。

又、この出版により右翼も我が家に抗議に来た。

しかし、女性天皇と女系天皇の違いを含め女系天皇がどういうものなのかということを知っている人は少なく、天皇の子供なのだから女系でも良いではないかと考えている人があまりにも多かった。

そのため、一生懸命になって男系存続の意義を語ると、最後にはよく理解されて帰っていった。

9割以上が、女系でも良いではないかという世論が、本が出版された数ヵ月後に5割まで落ちた。

そこに御懐妊の発表があり、皇室典範の話が止まった。

天が動いたとしか思えないが、導かれて自然な力が働いたのだ。

これだけだったら、一冊目は売れても二冊目、三冊目と売れることはなかっただろう。

特殊な体験をして本を出した人は結構いるからだ。

ところが、この作品『語られなかった皇族たちの真実』で「山本七平賞」を受賞してしまった。

処女作で、しかも20代での受賞は初記録となった。

山本七平賞は、ノンフィクション作品としての最高峰で、一年間に出版された本の中から1冊しか選ばれない。

一年間に出版される本は10万点、しかも立候補することはできず、勝手に選ばれるしかない。

今後の執筆活動を期待して下さった賞だと心した。

そして、受賞の翌日から名刺に「作家」と入れた。

受賞式の日、色々な出版社の方々が「是非、うちでも書いて下さい。」と寄って来た。

この人たちは、作品を持って回った時、私がなんて言われたのかを知らない。

この、最初の受賞式に声をかけてくれた出版社とは仕事をしている。

しかし、それ以外の出版社とは一生仕事はしないだろう。

「人を見る目を養った方が良いよ。」というメッセージを込めて。

制裁の意味ではない、これから多くの可能性を秘めた若い人が原稿を持ち込んだときのためにだ。

そして奇跡はまだ続く。

慶応義塾大学法学部の小林教授が、受賞直後に「この受賞は博士論文に匹敵する!いやそれ以上かも知れない。」と言って、大学院を出ていない私を慶應義塾大学大学院講師に推薦し、教授会を説得してくれたのだ。

更に来年、孝明天皇の本が出版されることが決まった。

これら全てが導かれて今がある。

自分の力ではない。


◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

一度壊れること!

自己否定するほどに。

私も何度も壊れた。

色々な不安や、最悪の状態を想定して全てを受け入れる。

全て想定した最悪の状態になる訳がないので、結果は必ずそれよりは良くなる。

全てを投げ出す覚悟で、どん底を受け入れる。

そうすれば必ず上手く行く。

又、経験から目標を持つと良い結果が出ないことを学んだ。

これには色々なタイプの人がいるから一概には言えないかもしれないが、自己啓発本を読み漁り、ネガティブに目を向けないように蓋をして現実を受け入れずにいると、「いつか良くなる」という期待だけではいつまでたっても結果がでない。

自己啓発本は真理ではない。

「ネガティブ思考のすすめ」を推奨する。

蓋をすればするほど卑屈になるからだ。

本当の意味でのポジティブは、「ネガティブのなれのはて」だと思っている。

私は、「作家になろう」と決めた時、特に目標を掲げなかった。

目標を決めるとそれで終わると思ったからだ。

又、他人は変えられないと思っている。

自分を磨くことによって、自分が変われば良いのだ。

自分を変えずに他人を変えようとするから、他人のせいにする。

自分を磨くと、自ずと豊かな人生になる。

社会が認めてくれようとくれまいと「自分を磨いておこう」といつも思っている。

役割がいつ来ても良いように。

それで役割が来なくても良いではないか。

役割が廻ってくるとか来ないとかは、どちらでも良いことだと思っている。

どこまでいけるか?人格、人徳、ありとあらゆる点で自分を磨く!


◆夢は?

理想的な日本の姿「日本が輝いている姿」にする。

何になりたいか?ということではなく、「何をする」ということを決めておけば良いと思っている。

例えば、富士山に登ろう!と決めた時、「富士山に登る」ということを決めておけば登り方は色々あって良いと思っている。

「何かをする」と決めて、そのために自分が何をするかという実体の方が大事。

例えば、日本のために何かしたいと考えた時、「政治家になりたい」と目標を決めた時点で可能性が縮小されてしまう。

「ビジョンを持っていれば目標に捉われなくてよい」と考える。

最適なものを一人ひとりが見つける。

そのためにも教育が大事。

逆に言えば、日本は教育でしか護れないと思っている。


竹田恒泰のホームページ“竹の間”
http://www.takenoma.com/

 






 

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