フットサルで次世代を育て繋げる「何度でも這い上がれ」王



バサジィ大分

監督

伊藤 雅範氏

2011/7/28 1400


伊藤雅範

 

◆業種

フットサルチームの監督


◆子供のころになりたかったものは?

会社員

結構さめた子供だった。

サッカーを始めたのは小学校3年生。

それまで6歳上の兄がサッカーをしていたので、ついていってはボール蹴りの相手を
してもらっていた。

父も母も、バスケットで国体に出場したこともあり、かなり運動神経が良い。

両親の母校の先生が、全く会った事もない自分の身長が180cmあると聞いて「君
たちの子供なら運動神経が良いに決まってる!推薦入学しないか?絶対にバスケット
ボールをやるべきだ!」と誘って下さった程だ。

兄も物凄く運動神経が良い。

姉も同じで、姉は更に頭が凄く良かった。

ある日、父と兄と姉と4人で、小学校の校庭開放でバスケットをして遊んだ。

少し遊んだら、父が「よーし!ゴールを決めたらソフトクリームを買ってあげる
ぞ!」と言った。

「さあ投げて見ろ。」と言われ、ゴール目掛けて兄弟が順番に投げることになった。

まずは兄が、一発で見事に決めた。

次に姉、最初は外すが頭が良いので、父にアドバイスを受けると直ぐに入るように
なった。

最後に自分、やってもやっても全然入らない。

小さかったこともあるが、家族の中で≪持って生まれた能力≫に個人『差』がある事
を兄弟たちから思い知らされながら育った

それでも、中学からJリーグに加盟しているクラブチーム、「読売日本サッカークラ
ブ」(現
「東京ヴェルディ1969」)のジュニアユースに入ることが出来た。

ところが、ヴェルディに入ってみると別世界!

「こんな世界があったのか!?」というくらい、ビックリした。

ボールには全く触れず、パスも来ない、来たとしても繋げない。

それまで「お山の大将」だっただけに、どう居場所を作るかで必死になった。

チームメイトは皆ライバル!這い上がるにはどうしたら良いか?考えた。

考えた結果は一つ、努力を重ねるという事だけで、がむしゃらにボールを追いかけ
た。

6年頑張ったが、トップチームには入れなかったので、大学に進学することにした。

学部が法学部だった為、入学当初から教授陣に「たとえ卒業しても、法に関わる仕事
に就くか?或いは何か資格をとらないと一般企業への就職は難しい。」と言われた。

駒澤大学のサッカー部に所属し、自分の武器は何だろうと考えた。

平行して将来を思い、自分に向いているものは何か考えた。

親戚に教師が多く、祖父母が塾を経営していたこともあって、教えることに興味が
あった。

それに、子供の頃から人を冷静に観察するところがある。

サッカーの試合を見に連れてってもらっても、他の子供は会場の熱気に興奮し歓声を
上げている。

ところが自分は、「なぜ、あの選手はあんなところにいるんだろう?どういう意味が
あるんだ?」等と考えてしまう。

気が付けばいつの間にか、人や状況を観察しているのだ。

人の話を聞くのも嫌いじゃないし、もしかしたら教師に向いているかも知れない。

それに、高校時代の社会科の先生も「教師は人を創る仕事だ!」と楽しそうに言って
いた。

サッカー部の練習と平行してのことだけにハードスケジュールではあったが、中学
校・高等学校社会科の教職免許を取得することにした。

サッカー部でも、主将としてチームをまとめ勝利に導かなくてはならない。

しかし、当初のチームは、選手が卒業後に85%もJリーガーになった程、精鋭の集
まりだったにも関わらず、思うように勝てなかった。

徐々に成績が下がり、大学サッカー1部リーグだったのが、この試合に負けたら2部
に降格になるところまで追い込まれた。

しかも4年生最後の試合でだ。

これで負けたら、卒業してしまう自分には取り戻すことは絶対に出来ない。

先輩が、可愛い後輩のために引き継いでくれた1部の座から自分の代で落とすことは
出来ない。

何が何でも伝統を守っていかなければ!このユニホームに申し訳が立たない。

追い込まれていたのは4年生だけでなく、部員全員だった。

強豪校であり、数々の栄光と優れた卒業生が輩出されてきた歴史の重みをひしひしと
感じながら日々、生活してきたのだ。

そう追い込まれた時、自然とチームがひとつになった。

伝統を守る!同じ方向を向いた皆のベクトルが太くなり、先がギュッとひとつになっ
て突き刺さった感じだ。

逆に、そうならないと勝てないことを学んだ。

最終戦、勝利したときは、まず「ホッ」と安心した。

これで可愛い後輩に1部を引き継ぐことが出来る。

勝利インタビューでは「胸を張って卒業します!」と答えたことを覚えている。

この言葉以外は何も見つからなかった。


◆毎日欠かさずしていることはありますか?

手帳を持ち歩いてる。

その手帳には、予定の他に、気づいた事柄や、良いなと思った言葉を書き記す。

常に手帳は手元に置いている。

今は青い手帳を持ち歩いている。新宿で一目ぼれして買った手帳だ。

中学校2、3年生の頃、塾の日時や友達との約束を忘れてしまうので、母から手帳を
付けるように言われ、父から手帳を貰った。

サラリーマンが会社で使うような黒い大人びた手帳だった。

なんか大人になったような気になって嬉しかった。

それから毎日手帳を付けることが習慣化された。

これが、もし大人びた手帳じゃなかったらこんなにも続かなかったと思う。


◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

一人目:川勝 良一監督

高校2、3年生の時、「ヴェルディ」時代の監督

今は、「東京ヴェルディ1969」トップチームの監督をしている。

とにかくサッカーに対して厳しく、こだわりのある人。

こだわりを一言で言うと、ボールを大切にする。

「しっかりとパスを繋いでゴールする。」これがヴェルディの特徴であり伝統であ
る。

殆ど洗脳に近い状態で、何度も何度もパスを繋げることを教えられた。

見本を見せてくれるのだが、技術や動きなど例えようもない程素晴らしく上手い!

選手に対する、指導も迫力が強かった事が印象に残っている。

川勝さんがしゃべる京都訛りの関西弁を聞くと今でも自然とあの頃の記憶がよみがえ
る。

サッカーの基礎を教えて頂いた、とても魅力を感じた人だ。


二人目:秋田 浩一監督

サッカーを通じて人を育てる!

人と人なんだ!人と人がチームを創る!

技術や戦術はその後。

お互いが信頼し合い助け合う。

シンプルなことだけど、言われ続けた。

また、キャプテンとして皆から見られているということを自覚させられた。

チームの一員として、人として、男としてどう振舞うか?

苦しい時に文句を言う、はたして本当にそれが正しいことか?

チームが苦しい時こそ、仲間を信じなくてどうするんだ。

そういったことを、情熱をもって教えてくれた人だ。

反発をもったこともあったが、とても感謝している。

今、選手たちに話している内容は、秋田さん伝授の話ばかりだ。


◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

1
、「厳しいとき、辛い時こそ男の力が試される。」

秋田監督の言葉

2
、「変われ!お前たちは変わらない(成長しない)と勝てないだろ!」

試合直前に秋田監督から言われた言葉

3
、「NEVER SAY DIE!」

中学の時、偶然辞書で見つけた言葉。

くよくよするな、弱音を吐くなという意味。

20年間、座右の銘として使っている。

下から上に上がるには、弱音を吐いたら終わり。

「弱音を言葉にしたら終わり」と思っている。

言霊というものだと思う。言葉にした瞬間に自分に逃げ道を作ってしまう。だから言
わない。

そんな時に言うのは、「NEVER SAY DIE!」だ。


◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

24歳の頃、岩本義弘さんとの出会い。

フットサルの監督になるきっかけを作ってくれた人。

大学を卒業してFC東京に入団、Jリーガーになった。

しかし、ジュニアの時にプロチームの厳しさを知っていため、自分の中で、一年間で
結果を出せなかったら辞める!と決めて入団した。

一年たって感じたことが2つある。

1
、試合に選ばれる11名と比べて「自分じゃなければいけない。」という理由はな
い。(チームメイトとの差がな
いということ)

2
、コートの上は、スポットライトの当っているステージと一緒で物凄く明るい。
しかし、それ以外は物凄く暗いということ。

その暗い部分の中から、色々な壁を突き抜けて、自分としては不条理なことにも打ち
勝って行かなければいけないことを知った。

結局一年間でチームを辞めた。

いきなりやめてしまったので、ポッカリと穴が空いたようになった。

友達は、社会人一年生で自分の生活を確立するのに一生懸命な時だ。

結婚して子供がいるやつもいる。

自分はというと、毎日がサッカー三昧だったので遊び方を知らない。

女の子との遊び方、お酒の飲み方もわからない。

その期間は、何もすることが無く、目覚めるのが怖かった。

取り合えず、自分の食いぶちくらいはと、バイトして寝ての生活が半年間続いた。

そんな時、岩本さんに出会った。

岩本さんは兄の友達で、サッカーの解説者であり、サッカー雑誌の出版をしている人
で、兄と一緒のフットサルチームに所属している。

そのチームの試合に、応援で入ったことがきっかけとなり、岩本さんから「やってみ
ないか!?」と今のチームを紹介され入団した。

しかし、サッカーとフットサルは似ているが全く動きが違う。

キック力は、かなりあるが動きが今一つだ。

それでも這い上がるしかない!と夢中になって練習した。

中学の社会科の臨時教員として、働き始めた頃でもある。

3年経って、もう直ぐ本採用になる!という時、なんと!フットサルで日本代表選手
に選ばれた。

「挑戦したい!」その気持ちが強く、安定した公務員を捨てて、フットサル中心の生
活と挑戦を選んだ

岩本さんに出会っていなかったら、今の自分はない。


◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

折角フットサルの日本代表選手になったのに、活躍出来なかった時。

フットサルを始めて2年でポジションが変更になった。

変更して1年たった時に代表選手に選ばれたので、経験が少ない。

自分のプレーでいっぱいいっぱいで、周りを活かす事が出来なかった。

代表選手になっても活躍できない。

監督から起用されなくなった。

こうなったら、自分の所属しているチームの中心選手となり、かつそのチームを勝た
せるという実績を作らなくては返り咲く道は無いと思った。

しかも、最下位だったチームを上位にもっていく位でないと通用しないだろう。

F
リーグ、フットサルの全国リーグ開幕と同時に

思い切って、神戸に飛んでまったく実績のない、無名のチームへと移籍した。

2007年4月の事だ。

ここでの結果がすべて、自分の真の力の証明になると決意して神戸に向かった

宅配便でアルバイトをしながら、チームを3位にまでもっていった。

全てが新鮮だった。

将来の伴侶となる女性にも出会えたし、人として凄く幅がもてたと思う。

そして2009年、古巣である府中アスレティックFC(前年最下位のチーム)へと
移籍。

移籍後、チームは4位となり、翌年、非常に珍しいケースながら、選手から監督へと
転身するようチームからオファーを受けた

正直に言って迷った。

ただ、新しいことへの挑戦であり、魅力的な挑戦だと思った。

その時、大学の秋田監督から、「お前は指導者向きだ。」といわれていたことを思い
出した。

大学のキャプテンをしていた頃は、その場の雰囲気を変えるため、わざと怒ったふり
をした。

ロッカールームに入って行き、黙ってロッカーを蹴ることもあった。

それだけでも皆がピリッとするからだ。

試合中も相手チームに、挑発的は発言をしてイライラさせたりした。

そういうことをチームを引っ張るために計算してやっていた。

常に相手のタイプを見分けて行動し、我を忘れてガーッと怒るようなことはあまりな
い。

ただ、残念ながら計算外に逆上してしまう事もある。(まだまだ修行が足りない)

結局、監督に挑戦することにした。

魅力的な挑戦だとか、何だとかより、チームの事を思った時、『自分が(監督の座
を)引き受けるべき』だと思ったのが決め手

その時々、落ちる度に何とか這い上がる方法を考えて実行してきた。

この精神力は、父の影響も大きいが母の存在が大きい。

母も、スポーツ選手として多くのことを乗り越えて来たのだと思う。

いつも「何事も黙々と頑張ってやり切りなさい。」と、はっぱをかけてくれたお陰
だ。

母の教えは今、いつも自分の胸にある


◆夢は?

1
、今のチームの監督を長く続けること!

2
、色んなチームの監督もやってみたい!

3
、いつか神戸へ帰りたい!

4
、日本代表の監督をやってみたい!

日本人だから出来ること、我慢強く守れるのは日本人ならではだ。

チームの劣勢を跳ね返せる精神力、ボールも走るけど人も走る持久力などを活かし、
日本のフットサルスタイルを創りたい。

後、10年位は海外の監督が担当するだろう。

しかし、サッカーがそうだったように、フットサルも最終的に日本人選手の良いとこ
ろを存分に活かせるのは、日本人の監督だと思っている

目指す場所は高ければ高い方がいいと思う。

努力の道は始まったばかりだ。


バサジィ大分

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