氷山の如き実績の底力で世を弁護する法曹王


 

シティユーワ法律事務所

パートナー弁護士

東洋大学法科大学院 客員教授

日産化学工業株式会社 監査役

片山典之氏

 

2014.11.6 1000


片山典之

◆業種

 

弁護士

 

 

◆子供のころになりたかったものは?

 

宇宙飛行士

 

宇宙に行ってみたかった。

 

子供のころよく見ていたヒーローものに、「サンダーバード」というのがあった。なんとなくカッコイイし、宇宙に行くと、とても感動するだろうと思った。

 

小学校4年生の時、母が突然、誰かの影響を受けたらしく、中学受験のため進学塾の入塾試験を受けさせられ、運良く合格した。

 

母が選んだのは、灘中学の進学率が高い「阪口塾」という少人数で寺子屋風の個人塾だった。

 

母は専業主婦だったが、元は管理薬剤師をしていたので、算数の勉強をよく教えてくれた。

 

父は、大阪で弁護士事務所を開業していて、私に関しては、どちらかと言えば放任主義で、あまり関わる事もなく怒られた記憶もない。

 

私が弁護士になると決めたのは、司法修習生時代、それまでは考えていなかったが、裁判官よりも経済活動の中心である企業の法務を扱いたいと思うようになったから。

 

大学卒業後、司法研修所を経て大手法律事務所に勤務し、米国のワシントン大学に留学、ニューヨークの法律事務所で2年間研修した。その間、ニューヨーク州弁護士の資格を得た。

 

米国滞在中に、留学前とは別の法律事務所に移籍したが、帰国と同時に大手証券会社に3年間出向し、自己資金による投資を扱う新しい部署の立ち上げに関わった。

 

当時はバブルが弾けて、都市銀行や大手証券会社が破綻をした時期で、銀行等は不良債権を多く抱えていて、国からも早く対処するようにとの指導があり、不良債権を売り買いするビジネスが生れた。

 

当時は、債権管理回収業に関する法律がまだなかったので、債権回収は、原則として弁護士しか出来ない仕事だった。

 

例えば、銀行から1億円の不良債権を、投資家たちが1千万円で買ったとする。

 

その不良債権の債務者から2千万円の回収が来たら、1千万円が儲けになるという仕組み。

 

投資額が二倍になって返ってくるようなものだ。

 

債務者にとっては1億円支払わなければならないところが2千万円で済み、銀行も不良化した債権が一割回収出来たことになる。

 

弁護士事務所にいては経験の出来ない、貴重な体験をさせてもらった。

 

 

◆毎日欠かさずしていることはありますか?

 

朝起きて、肩甲骨を動かす。

 

3、4年前から続けている。

 

最初は、東京フルマラソンの抽選に当たって出走権を手に入れたことが始まりだ。

 

自分の周囲でマラソンが流行っていたので、試しに応募してみたら最初から出出走権が当たってしまった。

 

それまでもテニスやゴルフ、マシンジム等は適度にしていたが、42.195キロのフルマラソンとなると訳が違う。

 

何とか完走したいと思い、その日からマラソンについて研究し始めた。

 

更に、テーピングが内蔵されたスパッツやタイマー付腕時計等、マラソングッズも揃えた。

 

マラソンは、脳に良い刺激が有るようで体調も良く、朝のスタートも軽快だ。

 

更に、走っている間は結構暇なので色々な事が考えられた。

 

今は走っていないが、この事は自分の体について考えるきっかけになった。

 

肩甲骨や大腿骨等の大きな筋肉を動かすと良いと知り、この時から肩甲骨を動かす体操を続けている。

 

 

◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

 

平山正剛先生

 

元日本弁護士連合会の会長で、当時、法職課程教室(早稲田大学の在校生、卒業生などのための、資格試験準備のための補習講座)で商法/手形・小切手法を教えておられた。

 

父の学友で、司法研修所も同期、同じ神戸で研修時期をともに過ごしたこともある。

 

父も、早稲田大学法学部出身なので、私の入学が決まって、一緒に上京してくれた際に、平山先生のご自宅を一緒に訪ねた。

 

平山先生と父は、大学時代,受験生時代の話で盛り上がり大喜びだ。

 

更に、司法試験合格者数が、その前後に東大や中央大学を押さえ一位になったこともあったので、「早稲田大学法学部は盛り上がっている。」といささか興奮気味に激励され、最後に司法試験について書かれた入門書まで貸して下さった。

 

このときの平山先生と父の盛り上がりがなければで、私が法曹になることはなかっただろう。

 

また、両親、友人、仕事仲間等、周囲の人にはとても恵まれてきたと思う。

 




 

◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

 

1、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」

 

経験から得た言葉。

 

小学校の頃から、私は要領が良くないと思っていた。

 

しかし、遠回りのようでも毎日コツコツと続けることで結果を得て来た。

 

若いうちは、道に迷ったら辛い方を選べと言いたい。

 

遠回りでもその方が良いと思っている。

 

当時お世話になった上席のある検察官も、「若いうちにした7、8年間の勉強を、どれだけ蓄積出来るかがその後の仕事に大きく影響する。

 

その後の仕事というのは、いわば蓄積した知識をただ剥がしていくことでこなすしかないと思っておいた方がいい。」と言っていた。

 

 

2、「司法試験の受験勉強、法律の勉強で辛いと思った事は一度もなかった。」

 

父の言葉。

 

受験勉強は結構大変だ。ただ、法律の勉強にはそれなりに興味を持って取り組めた。そうして続けていると結構面白いものだ。

 

司法試験の勉強を止めずに続けられたのは、そういう「気の持ちよう」を教えてくれた、この言葉だったかもしれない。

 

 

◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

 

司法試験の合格

 

大学在学中は、アルバイトもせず、学費や生活費等、全て仕送りしてもらっていたので、司法試験浪人にならなくて済むとホッとした。

 

どちらかというと、司法試験受験生は周囲から「モラトリアム人間」とか「金持ちの道楽でやっていること」と言われがちで、特に父親が弁護士だと、なおさらで、それはとても嫌だったし、親のスネかじりにはなりたくなかった。

 

そう思ったのは、一人暮らしをして親のありがたみを知ったからだ。

 

更に、大学受験が希望通りではなかったので、「司法試験こそ!」という気持があった。

 

最初の受験は大学3年生だが不合格、二度目の挑戦、大学4年生の時に合格した。

 

当時の司法試験合格率は2パーセントを切っていたこともあり、ほんとに運がよかったのだが、それまでの努力が具体的な形になったことがとにかく嬉しくて、達成感に満ち溢れた。

 

 

◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

 

1、大学受験

 

第一希望は東京大学文科一類で、現役のときと、一浪してからの2度挑戦したが至らず、更に、両親や周囲が期待をしてくれ、またサポートもしてくれたのに応えられなかったという思いもあった。

 

灘中高に入った私に両親が東大進学の期待をしていたのを肌で感じていた。

 

一浪のとき、結果を伝えると、電話の向こうで父が私よりも落胆している様子がうかがえた。

 

大学が第二志望になってしまったことで、これから自分なりの目標を立てても、結局はうまくいかないのではないかと落ち込んだが、このようなことがなければ在学中に司法試験に合格するという目標を立てることはなかったかもしれない。

 

大学3年生になると専門課程になるので、司法試験と重複する勉強が殆どだ。

 

朝9時に大学図書館に入り、午後6時まで勉強するという事を毎日続けた。

 

大学4年生の時に、司法試験に合格し目標を達成することが出来た。

 

大学を卒業した後、司法修習生として2年間研修所で見習いをするのだが、当初は裁判官志望だった。

 

研修所では、実際に裁判官、検事、弁護士の見習いを其々経験するのだが、裁判官は書面を元に判断し人と面会することは全くない仕事とわかった。

 

人の話を聞くのが好きな私としては、人との関わりがない裁判官の仕事は面白くなさそうに見えた。

 

更に、民事や商法が好きで、当時は、憲法や刑法に対してイメージがわかなかった事もあり、刑事事件を扱う検事は向かないと思った。

 

結果、消去法という訳ではないが、人と関わり、得意な民事、商法で勝負できる弁護士になることにした。

 

司法試験に合格したとき、実家の両親にはすぐに電話をした。

 

母の反応は、「まだ2年 くらいはかかると思っていたので、ホッとした。経済的に助かった。お前は親孝行だ。よかった、よかった。」だったが、父は「これからますます勉強すること が必要になる。がんばりなさい。」と、少しは褒めて欲しいと思っていた私には肩すかしだったが、若年合格者の私に「すごいね、すごいね。」とか、中には 「大金持ちへの切符を手にしたね。」、「一生、遊んで暮らせるね。」とか、全くとんちんかんなことを言う人も結構いる中で、父の言葉はありがたかった。

 

父 と同じようなことを当時の大学のゼミの先生にも言われた記憶があるが、司法試験にも合格している先生であり、司法試験に合格することの意味や、その成果を 活かすも殺すも、その後の本人の努力次第であるということ、それをストレートに教え子に伝えて下さったことにとても感謝している。

 

父は、私の司法試験合格のときに、私以外の自分の周りの人には、とても喜んでいた様子を見せていたようだった。

 

そのことは、2000年の父の告別式のときに、何人かの人から聞かされて知った。

 

2、採点の難しさと責任

 

今年から、司法試験(予備試験)の商法の問題作成と採点をすることになった。

 

受験生の時は、「どういうふうに点数をつけているのだろう。」と疑問ではあったが、他人に対する責任はない。

 

だが採点者となると、人の人生に影響する訳だからとても神経を使う。

 

かなりの通数の答案、しかも手書きのものを採点するので、かなり大変な作業だ。

 

しかし、引き受けたからには責任を持って務めさせてもらう。

 

 

◆夢は?

 

法律事務所の設立パートナーの一人として、もっともっと良い事務所にしたい。

 

主に企業法務を担当しているが、良い仕事をしたと評価されるようになりたい。

 

父もそうだったように、以前は個人事務所が主流だったが、個人事務所だと、その先生がいなくなるとそれまでの仕事で得た蓄積はそこでなくなってしまう。

 

経験やノウハウを、次の世代に引き継げる組織をつくりたい。

 

企業の様々な法律問題の解決に応えられるよう、多種多様な専門分野と豊富な経験を持つ大規模な事務所が、今後更に必要になってくるだろう。

 

組織がメリットになるのだ。

 

設立当初に決めたルールも手直ししなければいけないし、これからは組織経営にも力を注ぎたいと思っている。

 

シティユーワ法律事務所 弁護士紹介 片山典之

http://www.city-yuwa.com/attorneys/NoriyukiKatayama.html

 

 

 




 

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