◆子供のころになりたかったものは?
中学生の頃、夢は三つあった。プロ野球選手、漁師、農家。
野球をしていたので好きな野球をしながら裕福に暮らせる。
そんな素敵なことはない。と、プロ野球選手に憧れた。
また、松茸の人工栽培やチョウザメの養殖を知り、「これは儲かるんじゃないか」と思ったのもその頃だ。
両親からは「東京六大学へ進んでほしい」と言われ、お茶の水にあった明治大学の付属高校に合格し、そのまま明治大学農学部へ進んだ。
野球もでき、農学も学べる環境だった。だが、大学から排出されるプロ野球選手のレベルを間近で見て、自分にはその実力がないと悟った。
大学では砂漠緑化を学びながら、「人が好き」「食べることが好き」という自分の原点に気づいた。
学生時代にカナダを訪れた際、天ぷらや寿司といった日本食人気に衝撃をうけ、「もっともっと日本食を世界に広めたい」という夢を持った。
社会人では食品会社を志望したが、医薬品会社のお給料の高さに惹かれ全く興味のなかった業界に就職。
営業職として12年間働いた。
◆子ども時代を振り返って
子ども時代を振り返ると、まず浮かぶのは両親への感謝だ。
父は仕事で忙しかったが、母は元美容師で、結婚後はパートをしながら毎日欠かさず夕食を作ってくれた。
母が台所に立つと、よくその隣でつまみ食いをした。
あの光景は今でもハッキリと覚えてる、良い思い出。
本当に美味しかったおふくろの味。
東京で過ごした子ども時代は、隣の家との距離も近く、友達とも気軽に会えて、毎日野球に明け暮れる楽しい日々だった。
だからか、両親共働きで忙しかったと思うが寂しい思いをすることもなく、他の家庭を羨んだりしたことはほとんどなかった。
それは、両親がいつも自分たち子どもに「安心」を与えるために努力していてくれたからだろうと思う。
大人になった今、あらためて強く思うのは「お金の苦労をさせたくない」ということ。
当時は何不自由なく過ごしていたが、後になって「あの頃は実は大変だった」と聞かされた。
自分の4人の子どもがそれぞれの道を自由に選び、思いきり挑戦できるように。
そのためにも、経済的なゆとりをつくり、親にしてもらったこと以上のことを、子どもにしてあげられる自分でいたい。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
朝は4時半に起きる。サラリーマン時代からの習慣だ。
頭がリフレッシュされていてノイズの無い朝に仕事を終わらせて、心に余白を作る。
忙しい人には人は寄ってこない。
余裕がある人のところに相談が集まる。
リーダーを任されていたので、仲間と対話する時間や、自分の学びの時間を算出していた。
もうひとつ欠かさないのは、子どもの送り迎えと一緒に寝ること。
自分ほど子どもと時間を過ごす父親はなかなかいないと思う。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
支えになっていたのは常に妻の存在。
妻とは二人三脚でここまで来た。
子どもを4人生み、育てながら、見知らぬ土地で、何もないところから一緒に築き上げてくれた。
頭が上がらない。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「子どもはすぐ大きくなるよ」
「親が元気なうちに親孝行しよう」
この二つの言葉は、できなかった人の後悔から生まれた言葉。
繰り返し聞かされてきたその言葉が、私の心の奥に深く根付いていた。
だからこそ、今の「家族や好きな人とたくさん過ごす生き方」を実現するきっかけになった。
昔から何となく人の顔色を見ながら生きてきた。
サラリーマン時代はそれが営業の強みとなり、成果にもつながった。
だが同時に、人の顔色を気にしてばかりの生き方は、自分をすり減らす生き方でもあった。
医薬品会社で働いていた頃、ストレスで歯軋りが止まらなかった。
それが北海道に移住してから、嘘のように消えた。
心が安らぎ、自然の中で深く呼吸できるようになった証拠だった。
今は、好きな人たちと、好きなことをして生きている。
その当たり前のようで奇跡のような日々に、心から感謝している。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
30歳で結婚し、翌年に子どもが生まれた。
職場を見渡すと、上司たちは単身赴任ばかり。
「好きな人と結婚して、子どもも生まれたのに、なぜ大切な家族と過ごす時間がこんなに少ないのか」
その違和感が、人生の転機の始まりだった。
会社の育成研修に選ばれ、自己分析を重ねる中で自問した。
「この会社で偉くなって、自分は何がしたいのか?」
「会社の先輩たちのように、ミツバチのように働き続けることが本当に幸せなのか?」
答えはシンプルだった。
自分は人が好きで、人が喜ぶ姿を見るのが嬉しかった。
誰かが喜んでくれるから努力できた。
ならば、自分が作ったもので人を笑顔にできたら最高じゃないか。
ある日、テレビの『ビフォーアフター』を観て、職人が技術で人を幸せにする姿に感動した。
「自分も何かの匠になりたい」
そう思った瞬間、心の奥でスイッチが入った。
では、何の匠になるのか?考え抜いた末にたどり着いた答えは「北海道で米を作る匠になる」だった。
北海道のお米作りを選んだ理由は、ゆめぴりかの美味しさに感動したこと、そしてもう一つ。
農家の担い手不足を解消するために、志ある人を受け入れてくれる団体の存在を知ったことだった。
そこから紹介してもらったご縁が、今の鷹栖町の田んぼへとつながる。
お師匠さんの情熱と、北海道のお米の美味しさに触れ、「ここにしよう」と心に決めた。
寒さも厳しく、簡単ではない土地だが、ここで生きていく覚悟が生まれた。
「子どもと一緒に過ごしたい」
「好きな人たちと、好きなことを生業にして生活したい」
その想いが、起業へと突き動かした。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
「製薬会社を辞めて北海道で農業を始めたい」そう決意した時、最初に立ちはだかったのは家族だった。
妻は「私はサラリーマンと結婚したのに、なぜ農家に?しかも北海道?」と猛反対。
経済的にも恵まれ、不自由ない暮らしを手放し、縁もゆかりもない北海道で暮らす決断は、妻にとってあまりにも大きな覚悟を伴うものだった。
一方で、母もまた安定した生活を手放すことに大反対。
貧しかった時代を知る母にとって、製薬会社での所得の安定は何よりの安心だった。
妻と母は結託して反対し、家族の中に重い空気が流れた。
「何かを選ぶということは、何かを捨てるということ。」
自分の理想に家族を巻き込む苦しさを痛感した。その頃妻は第二子の妊娠中で、ストレスもかけたくなった。
だからこそ、すぐに行動には移さず、2年半かけてじっくりと準備を進めた。
北海道に通いながら事業計画を立て、データを揃え、家族の未来を丁寧に描いていった。
そしてある日、妻に「一緒にビジネスをしよう」と伝えた。
その言葉にようやく妻が心を動かし、GOサインが出た。
35歳までに形にできなければ諦める覚悟だったが、2年半の歳月を経て34歳で夢を現実に変えた。
たかすタロファームの始まりだった。
たかすタロファームが始まってからは、妻も私もまったくの素人。初めての農業は、手探りの連続だった。
譲り受けた田んぼは、もともと「農業を手放したい」と考えていた人たちのもの。
土壌やノウハウは整っていたが、相手が自然である以上、思い通りにはいかない。
「米が取れない年なんてないよ」と言われて始めたが、初年度から早速、不作に見舞われた。
気候に左右される現実を痛感した。
自然相手の仕事は、すべてを受け入れ、試行錯誤しながら前に進むしかない。
さらに、譲り受けた機械も年季が入っており、しょっちゅう故障した。
最初の頃は自分たちで直すしかなく、工具を片手に田んぼの中で格闘する日々だった。
今では新しい機械を買い揃えられるようになったが、あの頃の苦労が今の糧になっている。
初年度の不作を経験したことで、「どうすれば収量が少なくても利益を出せるか」を真剣に考えた。
答えは、自分で売ることだった。
製薬会社時代の営業経験から、起業する時点で「販売まで自分でやる」と決めていた。
中間マージンを省き、消費者へ直接届けることで、農家が食べていける仕組みをつくる。
不作の年でも利益を出せることを証明し、「やはりこれだ」と確信した。
その後、ウクライナ情勢による肥料供給の不安にも直面した。
「このままでは肥料が入らないこともありえる」と感じ、リスクヘッジとして“農薬や化学肥料を使用しないお米”の栽培にも着手した。
自然はコントロールできない。だからこそ、変化に柔軟に対応し、時代に合わせて工夫し続ける。
◆夢は?
夢は二つ。
ひとつは、農業を子どもが憧れる、誇れる職業にすること。
もうひとつは、「お米がおいしい鷹栖町・東鷹栖」を世界へ発信すること。
そのためにも仲間の農家と共に豊かになる仕組みを作りたい。
自分の特技は「ものを売ること」
生産者が自分の作ったものを自分で売れるよう支援し、ブランド「たかすのお米」を通して高く買い取り販売する仕組みをつくった。
社員にも起業を奨励し、自由で自立した働き方を推進している。
「大切な人の、大切な人や想いまで大切にする」
その想いを軸に、楽しく・稼げる農業と笑顔が広がる未来を目指している。